1.志位和夫氏の「未来社会論」

 

2024年4月28日付の「しんぶん赤旗」に、「「人間の自由」こそ未来社会の最大の魅力学生オンラインゼミ 志位議長が講演」という記事があります。

 

これまでも志位和夫氏は『新・綱領教室』(新日本出版社)などで未来社会を語っています。

その内容はほとんど不破哲三氏が『党綱領の未来社会論を読む』などで述べている内容と同じです。

つまり、日本共産党の未来社会論なのです。

 

 

 

 

現代社会について、三つの角度から志位氏はこう言っています。

 

 第1の角度は「『利潤第一主義』からの自由」です。志位氏は、資本主義下では資本のもうけを増やすことが生産の動機・目的であり、『資本論』はその病理を解明したと強調。その害悪として、「貧困と格差の拡大」と「『あとの祭り』の経済」の二つをあげました。
 

 

『あとの祭り』の経済」とは、資本主義社会では、バブル経済のあとで必ず恐慌がくることが分かりながら、繰り返さざるを得ず、「あとの祭り」が繰り返されると説明しています。

そのうえで、これだけは「あとの祭り」にしてはならない大問題が気候危機だと述べています。

 

次に志位氏は、「どうすれば『利潤第一主義』をとりのぞくことができるか」と問われ、生産手段を個々の資本家から社会(結合した生産者)の手に移すことだと言っています。

それは、生産の目的が『資本の利潤を果てしなく増やすこと』から『人間と社会の発展』に変えるのだそうです。

 

 第2の角度は「人間の自由で全面的な発展」です。「これはどういう意味か」と聞かれた志位氏は、未来社会の自由は、「利潤第一主義」からの自由にとどまらず、「人間の自由で全面的な発展」の中にこそあると強調。人間は素晴らしい可能性をもちながら、資本主義のもとではそれを生かしている人は限られているとして、「マルクスは、ここを変えたいと考えました。どうしたら『自由で全面的な発展』を保障する社会をつくれるかを、一貫して追求しました」と話しました。

 

 志位氏は、マルクスが研究の過程で、『自由に処分できる時間』こそ、人間と社会にとっての『真の富』だわかったと言っています。

 

 その上で『資本論』の結論は「人間の自由で全面的な発展」に必要なことは「労働時間を抜本的に短くする」ことだったと指摘。社会主義・共産主義の社会は「労働時間の抜本的短縮」を可能にするとして、「そこにこそ『人間の自由で全面的な発展』の保障があります」と述べました。
 マルクスが「自由に処分できる時間」は人間的教養を豊かに身につけ人格を全面的に発展させるとともに、社会的交流を豊かに行い、自己を発展させることにも使うだろうと展望していたことを紹介し、「マルクスの未来社会論の一番の輝きはここにある」と強調しました。

 
マルクスの結論が、「労働時間の減少」こそ「人間の自由で全面的な発展」というのはちょっと驚きです。
『ドイツイデオロギー』では、たしか肉体労働と精神労働の分離がなくなるとかだったような。
 
第3の角度「発達した資本主義国での巨大な可能性」へ移りました。志位氏は、資本主義から引き継ぐ「五つの要素」として(1)高度な生産力(2)経済を社会的に規制・管理する仕組み(3)国民の生活と権利を守るルール(4)自由と民主主義の諸制度と国民のたたかいの歴史的経験(5)人間の豊かな個性―をあげ、「これらを継承するだけでなく、発展させることが大切です。今日はここに力点を置いて話したい」とそれぞれの内容を丁寧に語りました。

 

そしてこの講義は、志位氏が「今のたたかいは全て社会主義・共産主義社会と『地続き』でつながっている」と述べ、最後に「発達した資本主義国から社会主義に進む道は人類が誰も踏み出したことのない挑戦だ」「資本主義の発達した現代日本で社会主義への前進を目指す取り組みは、特別の困難性とともに豊かで壮大な可能性がある」「日本で人類にとって誰も踏み出したことのない道をともに開拓しよう」と呼びかけたとか。

それで参加者の盛大な拍手に包まれたらしい。

 

 

2.斎藤幸平氏の新人世の「資本論」

 

最近、マルクスを研究している若い研究者で注目を集めているのが斎藤幸平氏です。

著書に『人新世の「資本論」』(集英社新書)、『 大洪水の前に 』 (堀之内出版)などがあります。

 

 

斎藤氏は2021年3月のインタビューでこう語っています。

 

資本主義がグローバル化していく中で、人は豊かになるために地球を開発し、その先にある自然資源などを商品化して経済成長を遂げてきました。しかし、「人新世」では資本主義が膨張を繰り返したことで、地球上にフロンティアと呼ばれる未開の地が失われてしまったのです。

資本主義がグローバル化していく中で、人は豊かになるために地球を開発し、その先にある自然資源などを商品化して経済成長を遂げてきました。しかし、「人新世」では資本主義が膨張を繰り返したことで、地球上にフロンティアと呼ばれる未開の地が失われてしまったのです。

 

https://wisdom.nec.com/ja/feature/workstyle/2021032401/index.html

 

ただ、ここで斎藤幸平氏は「脱成長」の経済を提唱しています。

 

── そこで、「脱成長コミュニズム」が世界を救うと提唱されています。その概念はどのようなものでしょうか?

 まず、「脱成長」というのは、GDPや経済成長至上主義で見逃され深刻化した事態、問題をもっと重視して、人間と自然が繁栄できるような社会に移行していく考え方です。資本主義というのは、絶えず資本を増やし続け、経済成長を求めていくというシステムです。ところが、経済成長を求める続けることにより、市場規模を拡大させ、人々に多くの消費を促していく中で、地球の限界を超えるようになりました。簡単に言えば、地球上の限りある資源の中で、年率3%で無限の成長を続けようというのは全く不合理な段階に入っているのです。経済成長を否定しているのではありません。途上国などは経済成長をする必要がありますし、私たちも経済成長によって豊かになり、貧困、飢餓、病気などを乗り越えてきました。しかし、地球環境が脅かされている状況で、これまで通りの経済成長を求める必要はないと考えます。人間と自然が繁栄できるような社会に移行していくことが「脱成長」の理念です。

 

ん?

 

これは志位氏がいう未来社会とどう違うのか?

 

 もう一つは、「コミュニズム」ですが、これは政治経済の文脈におけるいわゆる共産主義的な意味とは全く関係のないものだと思ってください。資本主義では絶えざる成長を求めるだけではなく、あらゆるものが商品化され生活に必要なモノさえも一部の企業が独占して利益を追求します。しかし人が生きていくための根源的なモノが商品化されている状況は、間違っているのではないかと私は感じます。生きるために必要な住居、公共交通機関、電気、水、医療、教育、そしてインターネットを入れてもいいと思うのですが、これらは基本的に公共財産(コモン)です。市場任せにするのではなく地方自治体や国がしっかり管理して、無償あるいは廉価で提供していく方がいいと考えます。

 あらゆるものを商品化する新自由主義、それに対して市場の領域を狭めていって「コモン」の領域を増やしていくことが「コモン主義」あり、これを私は「コミュニズム」と提唱しています。その目指すべき社会は、コモンの領域を拡張することで、経済成長にブレーキをかけるような社会、それが「脱成長コミュニズム」の概念になります。

 

志位氏は、「今のたたかいは全て社会主義・共産主義社会と『地続き』でつながっている」と社会主義・共産主義への道を提唱します。

それに対して斎藤氏は「「コミュニズム」ですが、これは政治経済の文脈におけるいわゆる共産主義的な意味とは全く関係のない」と言います。

 

コミュニズムではなく、コモン主義だと言うのです。

 

労働時間の短縮について、斎藤氏はこう言っています。

 

例えば、コロナ禍によって、テレワークが急速に普及しました。強調したいのはテレワークでよいというのではなく、働き方そのものを根本的に見直すことの重要性です。満員電車に乗って、通勤することがくだらないと断言できる大企業がでてくるべきです。さらに、フィンランドでも議論されているように、週休3日制や一日6時間労働も十分可能だと思います。
 

仮に技術革新で二酸化炭素の排出がゼロになったとして、電気自動車や100%リサイクル素材のPC、太陽光パネルなどを生産するために40時間以上働き続けることがそもそも幸せなのでしょうか。効率化された結果、二酸化炭素は出ないけど私たちは依然として多くを犠牲にして働く、そんな社会を目指すのかを含めて考え新しい価値観をつくる必要があります。あるいは、毎年のような製品のモデルチェンジなども、本来まったくもって不要なはずです。

 労働時間を削減することで収入減の懸念がありますが、だからこそ「コモン」なのです。「コモン」を増やすことは、労働で得られる賃金に必ずしも依存せずに、最低限の生活が保障される余裕がある社会をつくることにつながります。そうすれば、余暇や家族との時間を過ごしたい人には余裕が生まれるのです。コミュニズムの社会では、労働と消費のサイクルに巻き込まれることからコモンによって解放されることで、違った形の豊かさや人生の意味を再発見できるようになります。

 

まあ、志位氏と斎藤氏にはあまり違いがないように思います。

 

マルクスのおいしいところだけを語っているからでしょう。

斎藤幸平氏はマルクスの晩年の仕事から、気候変動への対策につながるものがあると言います。

 

『MEGA』に収録される晩年のマルクスの研究ノートや手紙を読んでいくと、実はマルクス自身も単にテクノロジーを発展させていけばいいと考えているわけではないことが分かります。むしろ前資本主義社会の共同体が、いかに無限の資本の増殖欲求や構成員の間の支配・従属関係にブレーキをかけていたかを考えていました。そうした「持続可能性」と「社会的平等」の原理を、西洋社会においても高いレベルで導入しようと言っていたんです。それを今日風にいうと「脱成長型のコミュニズムに移行しよう」と読めるんじゃないかと思います。もちろんマルクスは脱成長という言葉は使っていないし、気候変動の問題を論じていたわけでもないんですけど。そういう風に読む可能性が十分開かれているということですね。

 

 

 

3.マルクスの設計図は正しかったのか?

 

志位氏も斎藤氏もマルクスの分析とビジョンに賛同しています。

ニュアンスの違いはありますが、資本主義システムの分析について、マルクスの理解はほぼ同じだと思います。

 

マルクスが『資本論』や『共産主義者宣言』で描いた設計図を実行に移そうとしてたのは、ロシアのレーニンやトロツキー、ブハーリン、スターリンなどです。

 

ロシアの共産主義者に共通するのは、マルクスの設計図が正しかったと信じていたことです。

 

マルクスを神に、マルクス主義を宗教化したのはレーニンに大きな原因があると思います。

 

マルクスの学説は正しいから、全能である。その学説は完全で均整がとれており、どのような迷信とも。どのような反動とも、またブルジョア的抑圧のどのような擁護とも妥協できない、全一的な世界観を提供している。それは、人類が一九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統な継承者である。

 

 

レーニンは「マルクスの学説は正しいから全能である」と言っているのです。

 

しかし、レーニンが1913年に書いている「人類が一九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のもの」というのを最初に言ったのはマルクスの盟友・エンゲルスです。

 

1878年にエンゲルスが書いた『デューリング氏の科学の変革』(『反デューリング論』)ですでにマルクスの思想は体系化されているのです。その『反デューリング論』から三章を抜粋した『空想より科学へ ー社会主義の発展ー』の出版によって、「空想的社会主義」「弁証法的唯物論」「資本主義の発展」としてマルクスの思想は「マルクス主義」になったと言えます。

 

 

マルクスの設計図が現実と違ったのは、まず、ヨーロッパの先進国で革命が起きなかったこと。

 

しかし、レーニンはマルクスの設計図を修正し、二月革命の民主主義革命と十月革命のプロレタリア革命を連続的に実行することにしました。

マルクス主義は、マルクス・レーニン主義になったのです。

レーニンの期待ではロシア革命に続いて、ヨーロッパで革命が起きるはずでしたが、ドイツでの失敗を最後にその火は消えました。

コミンテルン(第三インターナショナル)」という国際共産主義運動のセンターもソ連の一国社会主義政策を支持しました。

しかし、トロツキーはそれでは世界が本当のプロレタリア社会にならないことを警告していました。

 

ただ、スターリンはそこからマルクスのわずかな設計図をもとに経済システムを運営しました。

スターリンはレーニンの神格化をそのときに最大限利用しました。

トロツキーの排除も「トロツキズム」=「反革命」、レーニン主義からの逸脱と宣伝しました。

 

そしてスターリンが着手したのは、第一次計画経済から始まる計画経済です。

革命後、内戦も続き、最初戦時共産主義という配給制を取りましたが、その後、生産性を上げるためにネップ(新経済政策)と呼ばれる資本主義の復活を行いました。

そして念願の計画経済を実行したのです。

 

これは、志位氏が言っている「生産手段を個々の資本家から社会(結合した生産者)の手に移すことで、生産の目的が『資本の利潤を果てしなく増やすこと』から『人間と社会の発展』に変わる」ことを目指したものでした。

斎藤氏のコモン主義は少し違うかもしれませんが。

 

レーニンは1921年に共産党のなかで分派も禁止し、表現の自由や思想信条の自由も取りしました。

それは、ブルジョア階級やブルジョア思想の復活を防ぐためでした。

スターリンはレーニン思想に反することをやったわけではありません。

ただ、レーニンは収容所に送ることになる思想犯や少数民族が数千万人になるとは思っていなかったでしょうが。

スターリンはそれを断固として実行できる革命家だったのです。

 

資本家や独立農業者の経済活動の自由を禁止するには、表現の自由や思想信条の自由を抑圧せざるを得ないのです。

それは、いまの中華人民共和国の実態を見ればわかります。

 

マルクスの設計図を実行に移すといくつかわかったことがあるのです。

 

これはあくめで、パトラとソクラのテーゼのためのメモです。

 

①必ずしも資本主義が進んだ国で革命が起きるわけではないこと

 むしろ、生産力が低く政治が成熟していない国で、開発独裁の手法としてマルクス・レーニン主義が有効であること。

 

②プロレタリア社会は一国では実現しないこと。しかし、連続的に世界で革命が起きることはありえないこと。

 政治が成熟した国ではマルクスやレーニンが考えたように暴力的に体制を転覆するのは人々の抵抗があって困難なこと。

 

③ブルジョア階級を消滅されるのは権力による強制力が必要であること

 そのためには表現の自由や思想信条の抑圧がセットになること

 

④マルクスが考えた生産手段を中心として階級の消滅では人間の自由は得られないこと

 労働時間が短縮されても、人間の自由(表現の自由、思想信条の自由など)は実現できないこと

 

⑤プロレタリア階級の議会(ソビエト評議会など)では、ブルジョア議会より政治的自由がなくなること

 

⑥競争をベースにした経済的自由を抑圧した計画経済が到達するのは、必要のない物の生産、製品の品質の劣化であること

 

⑦宗教を否定したマルクス主義が宗教化するメカニズムを、マルクス自身が理解していなかった

 

(以上、「パトラとソクラのテーゼ」メモ)

 

さて、日本共産党はソ連や東欧の失敗をマルクスの問題ではないと言っています。

つまり、思想の抑圧体制になったこと、計画経済で火を噴くテレビを生産するようになったことなどを生産力が低い国が革命をしたこと、スターリンの大国主義が要因だと言っています。

 

ほんとうにそうでしょうか?

 

最近マルクスを賛美する斎藤幸平のような人がいます。

それはマルクスの資本主義システム分析からの仮説、マルクスの設計図に焦点を当てています。

 

しかし、マルクスの仮説はソ連・東欧での実験では失敗だったとわかっています。

ソ連は革命から70余年を経て自壊しました。

東欧の国々は40数年での消滅です。

まだ、実験が続いているのは、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバの5つの国です。

しかし、それらの実態も明らかになっています。

 

志位氏も斎藤氏もどうして、仮説にだけ焦点を当てるのでしょうか?

実験結果にこそ大事な宝があるのではないでしょうか?

それから目をそらすのはどうしてなんでしょうか?

 

若い人たちに妄想を吹き込むのは、オウム真理教のやったこととたいして違わないような気がします。