スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』を読む、について、日本共産党員を名乗るいつものchocolateさんからコメントがありました。
そのやりとりを紹介します。
chocolate 04月14日 06:38
宗教についての日本共産党の見解です。
「布教、伝道の自由をふくむ信教の自由を無条件で保障する。すべての宗教的行事は国家にとって私事とみなされ、いかなる公権力の介入もうけない。政教分離の原則を守り、国家は、どんな宗教にも特権をあたえず、かつ差別しない。宗教団体が政治権力の行使に参加することを認めず、また公権力の機関ないし国公立学校が宗教教育その他宗教的活動をすることを認めない。特定の思想や信仰を権力で押しつけたり禁止したりする、いかなるイデオロギー的強制も認めない。」(「自由と民主主義の宣言」)
「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。」(日本共産党綱領)
それに対して、パトラとソクラはこう答えました。
パトラとソクラ 04月14日 08:02
>chocolateさん
自由と民主主義の宣言と旧統一協会の解散要件の妥当性と、信者の信教の自由の保障について、日本共産党はどのように考えていますか?
公権力(文科省)の介入を無条件で支持し、解散後、信者の信教の自由について何の保障の手立ても取っていないように思えますが。
この返事に対して、chocolateさんはいつもの「しんぶん赤旗」のお勧めか、コピペです。
chocolate 04月14日 08:42
>パトラとソクラさん
2023年10月14日付「しんぶん赤旗」の『主張』をご参照ください。
やれやれ。でもパトラとソクラは、ネットで検索して、その「主張」を読みました。
パトラとソクラ 04月14日 09:12
>chocolateさん
2023年10月14日付「しんぶん赤旗」の『主張』読みました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2023-10-14/2023101402_01_0.html
私の先の質問にまったく答えていませんね。
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自由と民主主義の宣言と旧統一協会の解散要件の妥当性と、信者の信教の自由の保障について、日本共産党はどのように考えていますか?
公権力(文科省)の介入を無条件で支持し、解散後、信者の信教の自由について何の保障の手立ても取っていないように思えますが。
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日本共産党の考えはないということですね。
それに対してはこういう答えでした。
chocolate 04月14日 09:29
>パトラとソクラさん
私は党員ですから、党の方針について人から質問されたら自分の知っている範囲で返答はしますが、私自身は普段は生活時間のほとんどを一労働者として生活している人間ですから(現実世界において私は党委員長ではないのですから)、党方針に対してすべて把握しているわけではありません。
どうしてもお知りになりたかったらご自分で最寄りの党地区委員会に電話でご質問されるのが良いかと思います。(私で答えられる内容のものは返答しようとは思いますが。)
あなたからの繰り返しの質問攻めには正直うんざりしています。あなた自身はこの問題についてはどのようにお考えなのですか。
私自身は、信者さんの「内心の自由」は、宗教団体が解散された後にも保障されるものと考えております。
《 世界は「弁証法」でできており、そのほかはすべて「形而上学」として切り捨てられる。また、世界はすべて物質でできている「唯物論」なので、それ以外の哲学は「観念論」として否定される。それが今も革命党の哲学なのだ。(…) そういう閉じた世界の「主義」を信じて、それが社会変革を主導していることが正しいと今も思っていることが問題なのだ。》の部分が、ブログ「表」の主テーマであったと思います。
例のごとく、議論の主テーマがずれていってしまいそうですので、「信教の自由」のテーマに関心が移られたのなら、新たに「表」において論考されてはいかがでしょう。
自分から日本共産党の宗教政策について宣伝しておいて、質問したら、これを読め、挙げ句の果てには地区委員会員聞け!と。
そして、「あなたからの繰り返しの質問攻めには正直うんざりしています。」と。
うんざりか?
パトラとソクラはふつうの共産主義者との対話は「うんざり」なんて思わないんだけどね。
じゃあ、毎回毎回、どうして「しんぶん赤旗」を勧めるんだろうか?
こういうことを共産党員は毎日繰り返しているんでしょうか?
いずれにせよ、今回、パトラとソクラの連載の趣旨が理解されなかったようです。
だから、今回、「おまけ」の回を作りました。
ここで言いたかったのは、chocolateさんへ最後に返事をしたこういうことです。
パトラとソクラ 04月14日 09:51
>chocolateさん
今回の連載は、マルクス主義の「哲学」である弁証法的唯物論について考察したものです。
日本共産党の不破元委員長が述べているのは、スターリンの教科書とほぼ同じものです。
しかし、それはスターリンのオリジナルではなく、レーニンの「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」の一部です。
それはエンゲルスの「空想から科学へ」からの焼き直しです。
そして、そこでマルクスの思想は「主義」になった。
マルクス自身がエンゲルスの著作の序文で述べています。
レーニンはぞれを「全能」と呼んだ。
若い頃、マルクスは全能の神、世界精神を否定していました。
しかし、哲学の論争をマルクスの時代で止めてしまったところで、つまりマルクスが全能になってしまったところで、マルクス主義の哲学は終わりました。
エンゲルスの失敗は、自然の弁証法を社会や歴史にまで拡大したことのです。
自然には自然の哲学が必要で、人間という予測不可能な多数の要因が加わる社会にまで適用したのが間違いでしょう。
マルクスからスターリンに至るどこかの段階で、すべての欲望をコントロールできるという思想になったのです。
ユダヤ教はユダヤ人の生活の苦しみを投影したユダヤ教を生み出し、天国というユートピアを夢想した。
マルクスは主にイギリスの労働者階級を見て、資本主義から生まれる苦しみを共産主義というユートピアで解決できると夢想した。
マルクスの考えは宗教ではなく、「学説」であり、「科学」なのだと勘違いした。あくまで「仮説」を作ったに過ぎなかったのです。
その結果、スターリン時代に生み出した政治犯や追放した民族は4000万人を超えると言われています。
仮説は検証された。
パトラとソクラが「宗教」を話題にしたのは、そのことに過ぎません。
共産主義者は、哲学を「弁証法」と「形而上学」に二分すること、「唯物論」と「観念論」に二分することを止めるべきです。
それは宗教と同じです。
フッサールの現象法でもいいし、サルトル(自身はマルクス主義者とも言っています)でも読んでみるといいでしょう。
マルクスより後の哲学の世界が広がります。
人類の哲学は、マルクスで終わっているわけではありません。
04月14日 09:51
このことに、多くの日本のマルクス主義者が賛同してくれるとは思いません。
でも、アルチュセールや廣松渉などマルクス主義を自認する哲学者が、現象学や実存主義と格闘することで優れた仕事もしています。
サルトルも『実存主義とは何か』という講演録と討論集で自身が「マルクス主義の諸説の多くに賛同している」と言っています。
サルトルのその講演は、第二次大戦後すぐに熱狂のなかで行われたものでした。スターリンのソ連が、ヒトラーのナチスドイツを破った後です。
それはアメリカとソ連の対立を生むことになった世界大戦でもありました。
その後、思想は袋小路に入ったようにも思えました。
ナチスに加担したといわれる二〇世紀最大の哲学者ハイデガーの評価も難しくなりました。
それまでの哲学を相対化するポストモダンの哲学者たちが多く現れました。
脱構築、差異、欲望、身体、狂気さまざまなテーマでそれまでの哲学をひっくり返し、絶対的な価値はないことを主張しました。
今注目されているのは、カンタン・メイヤスーというフランスの哲学者とマルクス・ガブリエルというドイツの哲学者です。
カンタン・メイヤスーはフランスの脱構築の潮流から出てきた哲学者です。
一方、マルクス・ガブリエルはドイツの伝統を踏まえた哲学者です。
マルクス・ガブリエルは思弁的実在論を主張し、サルトルに影響を受けた新実存主義の考え方を述べています。
この場合の「主義」は政治運動ではありませんんが。
カンタン・メイヤスーは、ガブリエルの思弁的実在論ではなく、思弁的唯物論を唱えています。
それは、人類のいなかった世界、そして人類のいなくなった世界、それでも世界は存在する。それはただ唯物論の世界として、という捉え方です。
人類がいて初めて世界を認識するというのは、マルクス・ガブリエルもカンタン・メイヤスーも同じです。
この二人の哲学者が似たような所に到達するというのが面白い!
カンタン・メイヤスーの唯物論は、エンゲルスのように世界はすべて物質で出来ている、だから物質的な存在が精神より先に存在するというのではありません。
だって、そうでしょ。
人類が生まれる前に火山が噴火していたとしても、それを認識できるのは人類が生まれてからですからね。
存在と意識の問題は、マルクスやエンゲルスが考えたときより、ずっと先に進んでいます。
AIの出現は、マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない』を読むと、人類が陥りがちな「脳」が私なのである、脳を支配するモノが世界を支配するという考えを改めさせてくれます。
これを読むと、ある意味マルクス主義は、自然科学主義であり、脳至上主義ではなかったかと考えさせられます。
すべてを自然科学(エンゲルス的に言うと、自然弁証法)で考えるのは間違いなのだと思います。
史的唯物論は「科学」ではありません。
科学的実験として考えるなら、社会主義革命とその結果をみるしかないのです。
しかし、社会や歴史の事象は、成否の要因が多すぎて、科学的分析には自然科学とは異なる困難が伴います。
だから、共産主義者のなかには、社会主義革命は失敗したのではない、あれはスターリンの個人的特質のせいだという人もいまだにいます。
カンタン・メイヤスーの『亡霊のジレンマ』を読むと、無神論者が非業の死者(早すぎる死、凄惨な死、子供の死、そして自分の子供たちの死)を弔うことが出来るのかという問題を考えさせられます。そこで宗教とは何か、正義とは何かを深く考えます。
マルクス主義者が、世界観を刷新するには、マルクスで哲学が終わったわけではなく、その後の世界の方が哲学にとって重要であることに気付くべきです。
パトラとソクラが、哲学、経済学、社会主義という三つのマルクス主義の構成要素のなかで、とくに哲学が大事だというのは、人間の認識や思考の方法=論理で、マルクス主義=科学的社会主義の制約から解放することこそが人間にとって必要だと思うからです。