(マルクス・ガブリエル)

 

 

竹田青嗣氏は、ヘーゲルの国家論の再考を提唱します。
国家は支配装置であるとともに国民の福祉を実現する機能をもっており、そのようにコントロールすべきだと。

しかし、竹田氏は具体的にどうすればいいのかという答えを持っているわけではありません。

同じように、柄谷行人氏にも結論はないのでしょう。


マルクスのフォイルバッハに関するテーゼがあります。

第11テーゼはこう書かれています。

 

哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。

 

マルクスは世界を解釈するより、変革が大事なんだと言っていました。

 

では、世界を解釈するということと、世界を変革するということはどういうことなのでしょうか?

 

 

1.マルクス・ガブリエルの思想
 

そんななかで考えるヒントをくれそうな哲学者がいます。

 

日本でも主著の訳書も出版され、NHKの特別番組にも何度か登場しているマルクス・ガブリエルです。

 

この人の哲学書はカンタン・メイヤスーほど難解ではありませんが、読むには根気が必要です。

 

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書)

NHK「欲望の時代の哲学」制作班

NHK出版

2018-12-14

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する (NHK出版新書)

 

読み始めるには、『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する 』(NHK出版新書)がおすすめです。


この本はマルクス・ガブリエルの来日を記念してNHKが企画した番組の記録です。

テレビ番組の記録という体裁なので読みやすい。
でも、マルクス・ガブリエルの入門書としては一番エッセンスが集約されている本だと思います。

 

こんな話があります。

ドナルド・トランプの就任式で、集まった群衆の数が過去最大だったと大統領補佐官が言いました。それは虚偽発言だったのかどうか。

ホワイトハウス報道官は「それは、オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)である」と言いました。違った見方をすれば真実だという。

このとき、何とも言えない気持ち悪さを感じました。

しかし、真実とは何かをめぐって、戦後の哲学は、強者に対する批判として少数者によるオルタナティブ・ファクトを主張してきたのではなかったのか?

ポストモダンが使った哲学的手法をトランプ陣営が使っているのです。

 

何とも皮肉なパラドクス。

 

この気持ち悪さを解決してくれるのが、マルクス・ガブリエルの考え方です。

 

オルタナティブ・ファクトという言葉に表される<世界>は真実なのか?

 

「世界は存在しない。一角獣は存在する」

 

とマルクス・ガブリエルは答えます。

 

 

新実在論のテーゼであるこの考え方を『なぜ「世界」は存在しないのか』(講談社選書メチエ)で展開しました。
 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

マルクス・ガブリエル

講談社

2018-11-30





真実にはいろんな見方がある。そのいろんな見方の合成が真実である。それぞれの真実がそれぞれの意味を持っている。そういう現れ方しかしない。

世界は意味の場の意味の場であると。

しかし、完全な真実、すべてをあらわす真実をもとめても、今わかった真実はその次の瞬間にまた違う意味の真実が合成される。完全な真実などない。その問いが間違っているのだ。

しかし、空想の世界なら存在する。どのひとにも一角獣がいると思えば空想の一角獣が存在するように。

 

「世界は存在しない。一角獣は存在する」

 

しかし、人間は真実がなんであるかを求めたがる存在です。

意味の場の意味の場は果てしなく広がっていきます。

 

 

マルクス・ガブリエルの次の大著、『「私」は脳ではない』(講談社選書メチエ)で展開したのは、神経中心主義、コンピュータ機能主義批判でした。
 

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ)

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ)

マルクス・ガブリエル

講談社

2019-09-11


 

人間の進化の延長線上に人工知能(AI)が存在するのではない。AIはあくまで人間の道具である。AIの進化は、むしろ人間がどうあるのかという問題なのだと。

ディープラーニング技術など、AIは脳の進化形のひとつだと考えられている。

しかし、わたしは「脳」ではないのだ。意識を持ち、自意識を持ち、精神(ガイスト)をもった心身=人間として現れている。

 

マルクス・ガブリエルは、民主主義や人間は重なる層でできていると捉えます。

例えば、「民主主義=多数決」と捉えるのは、法で支配しようとする一つの層。もう一つは、価値制度、価値体系の層。

それは「自由」「平等」「連帯」という価値体系。連帯とは相手の意見に同意するということ。多数決とは別次元。

では、人間とはなにか?

 

NHKの番組で、日本のロボット工学の第一人者・石黒浩教授と人間について対談しているところがあります。

とてもスリリングに感じます。

 

ドイツ人として、第二次大戦の非人間化を批判するマルクス・ガブリエル。人間の固定観念を持たない日本人としての石黒浩教授。日本人は鉄腕アトムの影響かロボットや人工知能との共存に拒否反応はありません。

 

しかし、ドイツ人であるマルクス・ガブリエルは人間の野蛮化を批判します。上への野蛮化として、神に近づくこと、その類似としての身体を持たない人工脳。下への野蛮化としての欲望の奴隷になること。

石黒教授にはそんな感覚も意識もありません。日本人はロボットを擬人化するのにも抵抗がないし、AIをあがめることが、神に近づくという意識も欲望の奴隷になるという感覚も希薄でしょう。

石黒教授と、いや現在の多くの日本人とマルクス・ガブリエルとは交わる思考がずれているのかもしれません。

 

けれど、マルクス・ガブリエルは日本のファイヤーウォール(文化障壁)は複雑で高いと言います。

空気が支配する文化など、たやすく、変えられるものではないという考え方です。

一方で、それは日本人は自ら規範に従う特質もつくっていると。

 

そういうとき、『マトリックス』のネオのようにウイルスとして振る舞うのも一つの方法だと提案します。この世界でウイルスとして振る舞うのは、街に出て石をぶつけるなんてことは必要ありません。

身近な会話なんかで、反民主主義的なこと、つまり、自由、平等、連帯と反することを聞いたら、自分はNOと言うだけでいいのだと。それが「ネオ実存主義」とか。

 

 

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キャリー=アン・モス

ワーナー・ホーム・ビデオ

2013-08-07


 

 

マルクス・ガブリエルはエマニュエル・カントにならって、三部作で自分の哲学を管制させる野望を持っています。

三部作目のテーマは、新実存主義。サルトルの実存主義を50年を経て、マルクス・ガブリエルが現代に蘇らせます。

『新実存主義』(岩波新書)でこれを試みているのです。
 

 

新実存主義 (岩波新書)

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マルクス・ガブリエル

岩波書店

2020-01-23


 

マルクス・ガブリエルがどうして自分の考えを「新実存主義」と名付けているのか?

それはサルトルのいくつかのテーゼを現在のものとして解釈しているからでしょう。

 

サルトルのテーゼ。

 

「実存は本質に先行する」

「人間は自由の刑に処されている」

 

マルクス・ガブリエルはさらにその考えを進め、こう考えます。

 

「人間は本質なき存在であるという主張」

「人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するものであるという思想」

 

マルクス・ガブリエルはこれまで『なぜ世界は存在しないのか』で自然主義的に還元される世界を批判し、『「私」は脳ではない』でその自然主義の延長であるニューロ中心主義を批判してきました。

この本でもこういう例が書かれています。

 

宇宙を自然科学的に物質で構成されるものとして考えてみる。

自分の住所をgoogle earthで見て、どんどん縮小モードにすると地球の一カ所であることがわかる。その視点は地球の外側のどこか一カ所である。

それを今度はgoogle universeでどんどん縮小モードにすると太陽系、銀河系のどこか一カ所の視点になる。宇宙全体が見える一カ所があるとしたらそれは自然科学的物質で構成されるものなのか?

それとも精神(ガイスト)の一部なのか?

果たして世界は存在するのか?

逆にユニコーン(一角獣)は存在する。ユニコーンがいると思えば、誰の心にもユニコーンは実在する。

ユニコーンのフィクションの話は、この本ではシェイクスピアのマクベスで表現している。

マクベスは誰の心にも実在する。どんな肉体、どんな顔をもっているか。いくつも存在する。

しかし、マルクス・ガブリエルという物質的な肉体をもった人間はひとつしかないと。

 

主観と客観とは何か?

精神と物質とは何か?

 

カント、ヘーゲル、マルクス、フッサール、ハイデガーなどが問い続けてきたヨーロッパの哲学のテーマをさらに深めています。

 

『「私」は脳ではない』では、人工知能を考えることによって、意識をもち自意識をもった人間とは何かを示しました。この本では人工知能の記述はありません。

しかし、心は脳ではないという同じ考えを、サイクリングは自転車に還元されないことで表現します。心と脳の関係は、サイクリングと自転車の関係だと。

 

新実存主義とは、「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である。(p.16)

 

世界は、あらゆるものを包含する一個の対象領域でも、あらゆることがらを包含する一個の事実領域でもなく、私の言い方では「あらゆる意味の場からなる意味の場」として理解すべきである。(p.18)

 

マルクス・ガブリエルの新実存主義、実在論はこの定義に表されます。

 

 

2.倫理資本主義とは?

 

マルクス・ガブリエルは、この数年、「倫理資本主義」という概念を提唱しています。

企業や投資家が人権や環境保護といった普遍的な倫理観を遵守することで全球的な社会課題を解決しつつ、同時にそれが企業の持続的な成長につながるような資本主義の新しい仕組みのことです。

 

『つながり過ぎた世界の先に』(PHP新書)でマルクス・ガブリエルはこう語っています。

 

 「世間では、倫理的に正しい行動をとることは自己の利益にならないという認識が広まっています。つまり利他的な行動のみが倫理的行動だという考えですが、これは非常に有害な考えで、否定する必要があります。倫理的行動が自分の利益に反するとしたら、なぜ倫理的に行動しなくてはならないのか、と人は考えるでしょう。
 この考えを突き詰めると、経済と倫理は相反するものであるという結論に達しますが、それはマルクス主義的な誤解です」(p.35)

 

「資本主義のインフラ、つまり市場インフラを使って、倫理的に正しいこと―例えば失業者を雇用したり、環境保全を行ったり―もできる」(p.36)

 

「倫理的に正しい行動をとった結果、お金が儲かるような経済体制をつくればよいのではないでしょうか」(p.37)

 

 

 

 

4年ぶりに来日したマルクス・ガブリエルは、資本主義のもとで人々の倫理性を行動規範とする経済は実現可能なのだと語っています。

 

「たとえば今、非常に裕福な人たちがコロナ危機に乗じて稼いでいる。彼ら次第ではありますが、得た利益をパンデミックで最も苦しんでいる子どもたちや、恵まれない国の人々に分け与えるべきです。」

 

「富とは単にお金を稼ぐことではなく、善いことをする可能性だと考えるべきです。たとえば、ある程度稼げば人はお金持ちになりますよね。そうなった場合、自分が持つ資源、権力、お金、人脈を投資に回すべきです。」

 

「最初は近隣住民、次は自国、次は州、さらに大きな地域へ。理想は、豊かではない他の地域や国への投資です。富とは、富を共有する可能性であり、他者のために善いことをする可能性であります。増えた富を倫理観に基づき再分配することを、ゴールとして設定するべきです。それが完璧なインフラなのです。」

 

「仮にビル・ゲイツがペルーの学校のインフラ整備に3億ユーロを出資したとします。この出資でどれだけ多くの素晴らしいトイレが整備されるかを想像してみてください。3億ユーロで、ペルーの学校の衛生状態を変えることができる。これが真の慈善活動であり、将来のモデルになると思います。もし10億ドルを私にくれたら、喜んでその半分の5億を受け取って、残りをラテンアメリカの3国のトイレ修理に出資します。それでもまだ私は大金持ちでしょう?」

 

マルクス・ガブリエル自身もグーグルやセールスフォースの倫理部門で仕事をしています。

このような試みに影響を与えたのは、NHKの番組にも出ていたクリスチャン・マスビアウという哲学者だとか。

 

「倫理資本主義という考え方は、思想主義を提唱した偉大な哲学者である エマニュエル・カント に由来しています。カントは“司法制度の機能は道徳的構造によって推進されるべきだ”と論じている。彼によると、たとえ悪魔であっても法律さえ守っていればいい。同じように企業がSDGsに従って利益を得ているのなら、SDGsに従わない企業よりはるかに善いと思います。

 

「10年後の世界において、フェイスブックはまったく重要視されないと予想していますが、もし同社が今後、自由や人道の解放に貢献するなら持続可能な企業になるでしょう。10年スパンの短期的な急成長ではなく、数十年生き残る会社を目指すなら、確実に持続可能性が必要です。そして持続可能か否かは、倫理的に善い行いをするかどうかで決まる。倫理的に善い行いが結果的に利益を生み出すことを理解する必要があるでしょう。その持続可能性を見極めるためには、会社の中に倫理チームが必要です。私は、倫理学者は税理士のようなものだと考えています。どの会社にも税理士がいるのに、倫理学者や哲学者がいないのは完全に間違いだと思います」

 

社会的価値と経済的価値は矛盾するものではなく、企業に倫理部門を作り、それを企業が実践していくことを広げれば可能だという考えです。

実際にドイツのホテルや建築会社ではオーバーツーリズムに対処する方法や環境を保護する試みを行っています。

 

──最後に質問です。いま、資本主義を再考するのに、哲学の領域から考えることが大切なのはなぜでしょうか?

 

わたしたちはいま、変化の時代にいて、何かがうまくいっていないということを誰もが感じているからです。そして、カール・マルクス以来、何世紀にもわたって哲学者たちは、そのほとんどが資本主義を攻撃するのみでした。でも英語圏の伝統的なリベラルな思想家たちは、道徳的に問題があることがわかりました。ロックは奴隷の所有者でした。つまり、英語圏のリベラルの伝統は、道徳的に信用されなくなったのです。

 

それ以降、哲学は資本主義に対して空虚な批判を繰り出すに過ぎないのですが、それでは埒が明きません。なぜなら、人々をいま貧困から救うためにはお金が実際に必要です。わたしたちには欲望があり、現実があります。つまり、資本主義が悪いとは言えないんです。

 

だからこそいま、哲学の世界から、資本主義を再考することが必要です。肯定派も否定派も、その双方にある神話やプロパガンダ、弁明や批判をすべて取り除き、その間に新しい道を見いだす必要があるのです。それが、わたしがいま、倫理資本主義という概念で行なおうとしていることなのです。

 

 

 

 

このような取り組みをマルクス・ガブリエルは「新しい啓蒙」と呼び、組織も作っています。

 

前例のない環境危機や、世界規模の不穏に直面している今日の私たちにとって、ヨーロッパ中心の啓蒙主義の弁証法を超えた「新しい啓蒙」が要請されている。The New Instituteの設立は、その試みの一つである。

そこでは、学際的な協力が、学問、政治、ビジネス、テクノロジー、メディア、アートなどの分野にまたがり、①21世紀の人間の条件、②社会的・経済的な変革、そして③デモクラシーの未来、といったテーマを中心に行われている。ウォーバーグ・アンサンブル(Warburg Ensemble)と呼ばれている19 世紀のタウンハウスで、世界各地の学者がともに生活しながら研究生活をおくる体制も整っている。

 

その一環として、マルクス・ガブリエル氏はCenter for Science and Thought (CST) を紹介した。CSTとは、哲学と自然科学の接点を創りながら、今日の危機的状況に対処するために設計されたプラットフォームである。そこで、研究者は、デジタル技術と人工知能にも焦点を当てながら、哲学とともに科学知の限界に向き合い、より良い共創を目指している。

 

 

 

企業レベルで取り組めることはあります。

最近流行っているCSV経営、パーパス経営という考え方にも近いものがあります。

 

さらに最近強まっているガバナンス経営によって、企業の経営を暴走や沈滞から回避することになると思います。

マルクスの頃の株式会社と今の株式会社は形態も大きく変わっています。

上場会社は取締役会や監査役の機能により、また所有と執行の分離により誰が所有しているのか、階級的な区分があいまいになっています。

会社法改正によって、日本でも取締役社長を選ぶとき、その候補は委員会組織で作ることになっています。

報酬についても個人で決める仕組みではありません。

株式会社はいったい誰の所有物なのか?

ステークホルダーは株主だけなのか、従業員や取引先、消費者や会社のある地域も含むのかなどが問題になっています。

また、会社法の改正によるハードなガバナンス体制だけではあく、ソフト部分のガバナンス・コード整備は東証などの市場のほうが強めています。

 

企業組織でできることはまだまだあるのです。

とくにガバナンスについては、企業の取り組みは政党や学校よりも進んでいます。

 

 

3.ソーシャル・ネットワーキング・サービスから離れるか、ウイルスとして振る舞うか

 

マルクス・ガブリエルは、個人で出来ることについても語っています。

SNSとの関わりについてこう言っています。

 

ソーシャルメディアの問題は、人を変えてしまうことです。ソーシャルメディアで人の行動が変わるということは、ソーシャルメディアがわれわれに自己を与えているということです。

しかしフェイスブックに私が何者であるかを決める権限などありません。とんでもないことです。そんなことに時間を費やすよりも、ソフォクレスやシェークスピアの作品を読んだり、友人と話をする方がよっぽどいい。

私がいっているのは、「元の自己」があって、ソーシャルメディア上に「歪んだ自己」があるということではありません。その反対で、ソーシャルメディアは人に、「本人が望まない自己」を押し付けているということです。しかもそのプロセスが不透明なのです。ソーシャルメディアは人に新たなアイデンティティを売り付けて大儲けしているのです。

ちなみに、「元の自己など存在しない」ということは、すでにソクラテスが言及しています。

彼は「自分は何も知らないことを知っている」と言ったことで有名で、そのために賢人中の賢人といわれています。しかし、後者のギリシャ語の意味は、「自分は何も知らない自分を認識している」ということなのです。これは「自分は何も知らないことを知っている」とはまったく違います。ソクラテスは自己認識のことを言っていたのです。自分に確固たる本質があるという観念から脱却しなければならないという考え方は、仏教その他の宗教にも見られます。

ソーシャルメディアは自分がもともと持っていなかったアイデンティティを押し付けてくるのです。あなたはアフリカ系アメリカ人だとか白人だとか、左翼だとか右翼だとか、若いとか歳をとっているとか、環境派だとかそうでないだとかを勝手に決め付けます。自分になかったアイデンティティを創り出すのですが、それは幻想に過ぎません。

こうしてアイデンティティを押し付けられると、人は誤った自己概念に基づいて行動するようになります。私は、「確固たる自己がある」という考えを捨てることが自己を見つけることだという仏教の考えに賛同します。私という人間は極めて複雑なプロセスの塊なのです。

 

そして、マルクス・ガブリエルは、SNSをデジタル・デトックスしようと呼びかけます。

 


若い日本人の女子プロレスラーが、SNSでの誹謗中傷が原因で自殺したと聞きました。どんな対策を講じても、このようなサイバーいじめはなくなりません。SNSが生み出すストレスは、日本でも相変わらず大きな問題のようですね。

私たちは本当にデジタル・デトックス(解毒)を始める必要があると思います。そのプロセスを魅力的な観光旅行のようにすれば良いのです。富士山の近くなどで3週間過ごし、その間美味しい食事をして、ネットには一切接続しない。それが第一のステップです。

パンデミックの最中、私はすべてのソーシャルメディアのアカウントを削除しました。フェイスブックやツイッターのアカウントを持っていたのですが、パンデミックが発生すると、ただちにこれらをすべてキャンセルしたのです。

驚いたことに、何の不自由もありませんでした。例えばフェイスブックでアメリカ人の友人とコミュニケーションが取れないのは困るだろうと思ったのですが、そんなこともなかった。麻薬はやめたら離脱症状が現れますが、ソーシャルメディアはやめてもちっとも困りませんでした。

 

 

 

今、われわれは、SNSを含めてサイバー世界とリアルの世界をどちらもリアルと感じる世界に今取り囲まれています。

 

この世界から離れられないとき、マルクス・ガブリエルが言っているように、『マトリックス』のネオのようにウイルスとして振る舞うのも一つの方法なのでしょう。

 

この世界でウイルスとして振る舞うのは、街に出て石をぶつけることではありません。

身近な会話、ブログ、SNSなんかで、反民主主義的なこと、つまり、自由、平等、連帯と反することを聞いたら、自分はNOと言うだけでいいのだと。それが「ネオ実存主義」です。

ある組織で反民主主義的なことが起きていたら、それにNOと言えるかどうかなのでしょう。

それは企業内でも、学校内でも、政党内でも同じです。

組織を維持する以上に大事なことがあるのです。

 

あらゆる場面で自由のために民主主義を貫くこと。

それは、ささやかだけれど、とても大事なことなのです。