(柄谷行人氏)

 

柄谷行人氏は2022年に『力と交換様式』(岩波書店)を世に出しました。

これは柄谷氏の仕事の集大成とも言える作品です。

 

四象限の図が、いかにも意味ありげです。

 

 

 資本=ネーション=国家を超えた未来はあり得るのか。まず、柄谷さんがその可能性をまとまった形で考察したのが、2001年の『トランスクリティーク』だ。カントとマルクスの読解を通じて、交換の観点から社会をみるというアイデアを示した。その後、9・11以降の世界の分断を受けて、その考察を練り直し、〈交換様式〉として2010年の『世界史の構造』で全面的に展開され、体系的理論となる。

 

 

 〈交換様式〉は、柄谷さんが編み出した独自の概念だ。社会のシステムを交換から見ることで、四つの交換様式を見いだした。その四つは、A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている。歴史上にあるDは様々な形を取るため、柄谷さんは〈X〉と呼んできた。

 

 

 

 

1.人間社会の歴史を生産様式ではなく交換様式で捉え直す


柄谷行人の『力と交換様式』を読むと、国家と貨幣について、なんか霧が晴れたような気がします。


人間社会の歴史を生産様式で見るのではなく、交換様式で見ること、その際に貨幣の物神性、貨幣が蓄積するときの資本の物神性、そして人間が制御できなくなる国家の物神性、そこにフォーカスすればいいっていう視点です。

マルクスがいう労働の商品への対象化、それの貨幣への転化を物象化とルカーチなんかが解釈して、マルクスが言っていたフェティシズム(物神化)という意味は捨象されてしまいました。


でも、大事なのは交換における物神、霊という側面だったと柄谷氏は言います。

柄谷行人氏が分析概念として提示しているのは4つの交換様式。

A 互酬(贈与と返礼)
B 服従と保護(略奪と再分配)
C 商品交換(貨幣と商品)
D Aの高次元での回復

 

私が「力と交換様式」というとき、その力は物理的な力ではなく、観念的、あるいは霊的な力を指す。そして、それは人間と人間の間の「交換」から生じるものである。そして、この力は「交換」の種類によって異なる。


「交換」というのは、集団内での交換ではなく、他の集団との「交換」のことです。

次の「B 服従と保護」について、柄谷氏は国家が形成されたのは農耕により定住化したからではなく、国家が形成されて灌漑用水が整備されたりするのからだと言います。順序は国家が先で、定住化は後だということです。
 

そしてマルクスが考えた国家は、ホッブスの『リヴァイアサン』のような怪獣。物神化のなせる技。専制によって国家が生まれたわけではありません。人間と人間の契約の結びつきによって、「自発的隷従」こそが国家を可能にするのです。王の保護を求めて、民は隷従します。これはアントニオ・グラムシが服従を促す強制力をヘゲモニーと呼んだように、国家への「自発的な服従」によるものです。マックス・ウエーバーが支配の形態としてカリスマ支配を述べたこととも繋がっています。交換様式Aに代わって、交換様式Bが支配的になるなかで起きることです。

「C 商品交換(貨幣と商品)」について、CはBが始まるのと同じ時期に始まったと言います。

最後の「D Aの高次元での回復」は原始共産制のことではありません。アジールと呼ばれる聖域もその一種ですが、交換様式Bを拒み、Aにある互酬性を取り戻すものなのです。
世界宗教(帝国を支える一神教)や普遍宗教(最初は帝国の周辺部で現れる)のなかで実現するケースもあります。

マルクスは生産手段の私的所有が階級を生み、その物象化(物神化)によって国家が生まれたと考えました。だから革命によって資本家階級が消えれば、国家も消えると思っていたのです。
いやいや、それはもっと生産力が高い共産主義の時代であって、今は生産力が低い社会主義の時代だから国家はなくならないんだとかいう言い訳の仕方もあるでしょう。

 

階級社会を消すことは出来るだろう。しかし、その時、国家は残る。つまり、権力をもつ支配者が残る。・・・そもそも国家はたんに支配者が用いる「装置」なのではない。それは交換様式Bにもとづく「力」である。それは交換様式Cから生じる力(物神)とは異なるが、やはり観念的な力として残り続ける。というよりむしろ強大になる。

 

柄谷氏は資本主義における剰余価値についてこう言っています。

 

商人資本の場合、物をその価格が安いところで買って、それを高いところで売ることでその差額を利潤とする。次に産業資本も差異を利潤に転じて増殖させるという点で、商人資本と同じである。ただ、その場合、差異は空間的というよりも、時間的に存在する。また、産業資本が商人資本と異なるのは、その利潤が、主として、資本家と労働者の間での交換、すなわち貨幣と労働力商品の交換から得られることである。
いずれの場合も、交換は合意に基づいてなされる。つまり、たんなる詐取や収奪によるのではない。では、いかにしてそこに剰余価値が生じるのか。それは、資本が、技術革新や共働化を通して労働生産性を上げ、労働力の価値を実質的に下げることによってのみ可能となる。その意味で、商人資本では、利潤となる差異が空間的に見いだされるのに対して、産業資本では、差異は時間的に作り出されると言ってよい。

 

マルクスが剰余価値で注目したのは、産業資本が時間的に作り出す差異。それを搾取と呼びました。でもそれはリカードが先に考えていたことなのですが。

 

 

2.交換はどうして起きるのか?

ところで、柄谷氏が注目した交換はもともとなんで起きるのでしょうか?

柄谷氏はマルセル・モースにその答えを見いだしています。

 

「マルクスの死後、交換様式Aから生じる観念的な力に注目した人物がいます。人類学者マルセル・モースです。彼が未開社会に見いだしたのは、Aがもたらす〈霊的な力〉です。例えば、贈与された者は返礼しなくてはならない。贈与と返礼を強いているのは、物に付着した霊的な力だとモースは言う」

 

 「しかし、霊的などと言うと、科学者からバカにされるから難しい。モースもそう言ったため、彼を称賛したレヴィ=ストロースなどにも批判された。しかし、モースは、他に言いようがないからそう言ったのです」

 

 

 

柄谷氏はこの本で、交換について、目に見えない霊的なもの、対象化によって付着する物神性に着目してひたすら展開しています。
『力と交換様式』の最初のほうで、柄谷氏はヘーゲルが『哲学史講義』のなかで、ソクラテスにお告げをする精霊(ダイモニオン)について、あれはソクラテスの無意識であると書いています。マルクスも交換の過程で無意識にフェティシズムを『資本論』のなかで考えたのだと柄谷氏は言うのです。

交換が起きるのは霊的な力とも言えるでしょう。

 

 

3.Dは〝向こうから〟来る

資本主義は、マルクスが生きていた時代から変わってきています。

 

GAFAの台頭のように、ビジネスのプラットフォームを制する、いわば「資本のない資本主義」が出現しています。産業資本の対象が物から情報に、有形から無形に転化したことは画期的に見えます。しかし、それらは資本の自己増殖を可能にする絶え間ない「差異化」だという認識を超えるものではありません。それを推進するのは、人でも物でもなく「物神」にある、と柄谷氏は言います。

後半で柄谷氏は「社会主義の科学」を述べます。


これはエンゲルスの『ユートピアから科学へ』(空想から科学へ)の批判です。
ソ連という社会主義国家は消滅したが、ロバート・オーエンの「協同組合」は様々な形で存在しているし、フーリエの「産業的共同体」も同じように存在しています。

 

では、国家や資本を揚棄すること、すなわち、交換様式で言えばBやCを揚棄することは出来ないのだろうか。できない。というのは揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだ。唯一可能なのは、Aにもとづく社会を形成することである。が、それはローカルにとどまる。BやCの力に抑え込まれ、広がることが出来ないからだ。ゆえに、それを可能にするのは、高次元でのAの回復、すなわち、Dの力によってのみである。
ところが、Dは、Aと違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば〝向こうから〟来るのだ。

 

これはどういうことなんでしょうか?


要するに里山資本主義的なローカルなDは、ロバート・オーエンみたいなものは可能だけど、BやCを捨てて、国家レベルでDをつくるのは無理ってことなんでしょうか。

柄谷氏は、示唆的にカントが『永遠平和のために』で提起した「世界共和国」を持ち出してきます。しかし、カントが提唱して二世紀にわたり実現しなかった構想です。

 

 

 

 

しかし、それは消えることなく回帰してきた。今後にもあらためて回帰するだろう。そして、そのときそれは、AというよりもDとして現れる、といってもよい。・・・今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、〝Aの高次元での回復〟としてのDが必ず到来する。

 

最後はそう結ばれています。

 

 

4.Dが〝向こうから〟来るとき、何もしなくていいのか?

 

柄谷行人『力と交換様式』をめぐって、東京大学でシンポジウムが開かれました。

柄谷行人氏に國分功一郎氏、中島隆博氏、斎藤幸平氏が質問するというゴージャスな企画でした。

 

 

 

とくに注目はマルクス研究者の斎藤幸平氏が柄谷行人氏に何を聞いて、柄谷氏がそれにどう答えるのかということでした。

 

斎藤 私たちはDの出現をただ待っているだけではなく、そこに向かって何らかの形でアソシエートしていくという主体的な行為がやはり求められるのではないでしょうか。さまざまな社会運動や環境運動にコミットしている身としても、そのような能動性は手放せないと感じています。気候崩壊のときに、X的な何かが生まれるかもしれない。でも、それでは間に合わないわけですから、やはり破局を止めるためのアソシエーションをつくり、それが資本主義を超出するような運動になっていくべきではないか。そのようなDは、マルクスを扱う以上、コミュニズムであることは自明であり、私はそこに「脱成長」を付け加えたんです。

 

それに柄谷氏はこう答えています。

 

柄谷 斎藤さんのように運動を考える人には反対しませんよ(笑)。

 

ただ、僕は政治的社会的にもっとひどい状態になるんじゃないかということを感じているんですよね。

 

このことに関するこういう記事もあります。

 

近年のインタビューでは、(柄谷氏は)「戦争の時代が来る」と指摘してきたが、現にロシアがウクライナに侵攻する事態になっている。

 

 「私は別に驚かなかった。資本、ネーション、国家が残っている以上、歴史の〈終焉〉はなく、〈反復〉があるだけです。たとえば、90年ごろにアメリカで言われた〈新自由主義〉は、その後、事実上、〈新帝国主義〉に転じた。つまり、90年以後の世界史は、別に新しいものではない。実際、ロシアとウクライナの戦争は、第1次世界大戦や第2次世界大戦の反復でしかない」

 

 

 

この東大のシンポジウムではさらにフロアから斎藤幸平氏と同様の質問がありました。

 

ーーー交換様式Dは自らの意思では達成不可能で、向こうからやって来るものと捉えてしまうと、人間の自由意志による能動性を無気力化してしまう恐れがあると思うんですが、この点について、いかがお考えでしょうか?

 

柄谷 Dが向こうから来ると私が言ったのは、何もしなくてもいいという意味ではありませんよ。むしろ大変な努力をして、それでもうまくいかない。でも耐えろ、ということです。だから明るくもないし、楽な道でもない。

たとえば、エルンスト・ブロッホが「希望」ということを言ったけど、彼は希望なんかあり得ない状況で「希望」と言っているんです。決して先にいい状態が来ると考えているわけじゃない。それでもやろうということだからね。

 

ブロッホの「希望」とは?

 

Dによる社会がいつ到来するともしれないまま、世界は危機の中にある。柄谷さんは、Dの一つの表現として、マルクス主義思想家エルンスト・ブロッホの〈希望〉という概念を挙げている。それは、資本と国家を揚棄する可能性を指すもので、「中断され、おしとどめられている未来の道」の回帰だという。

 

 「これは本来キリスト教の観念だと思う。だけど、彼はそれをキリスト教としては言わない。しかし、それではよくわからない。私が考えたのは、それを交換様式の観点から説明することです」

 

 柄谷さんの考えでは、「未来の道」はブロッホのいう「未だ-意識されないもの」がもたらすものだ。こうしたDの可能性は、原始キリスト教や初期の仏教、あるいは共産主義の構想などとして、抑圧されても繰り返し歴史のなかでよみがえってきた。

 

 今後において、国家(B)と資本(C)が必然的にもたらす危機は繰り返しやってくる。しかし、それゆえにAの回帰としてのDは必ず到来する、というのが柄谷さんの認識だ。「〈希望〉がまだあります。絶望的な未来においてこそ」

 

 

 

ちょっと抽象的な話です。

 

何をどうすればいいのか?

それに柄谷氏は答えてはくれません。