1.世界幸福度ランキング

 

世界幸福度ランキングというのがある。

2023年度に6年連続で1位となっているのがフィンランドだ。

 

「世界幸福度ランキング」とは、世界幸福度調査(World Happiness Report)の結果に基づき、国連の持続可能開発ソリューションネットワーク(SDSN)が発表するランキングだ。

各国のおよそ1000人に、生活評価(生活に関する幸福度の評価)を0~10までの11段階で行ってもらう。さらに、過去3年間の生活評価の平均をもとにランキングが決定する。
2023年の世界幸福度ランキングは、2020年から2022年の3年間が対象となっている。

 

具体的にはこんな調査だ。

 

世界幸福度報告が発行されてから10年以上が経過し、多くの人々に「国の繁栄・成功は国民の幸福によって判断されるもの」と認識されるようになり、徐々に浸透してきました。そうなるにつれ、幸福をどのように測定すべきかについても、コンセンサスが高まってきました。2023年の世界幸福度報告では、幸福を測定するためにさらに次の5つの設問も含め、調査を行いました。
 
①標準的な国民層は、最近の生活にどの程度満足していますか。
②新型コロナウィルスをはじめとする直近3年間の危機の中でも、自国の政府の信頼度と福祉施策などにより、どれだけの国民の命を救い、幸福を支えてきましたか。
③国民の幸福に大きな影響を与える「国による有効な方法」とは具体的に何ですか。国民の幸福に影響を与える指標とは以下の通りです。

国家の財政力
行政サービスの総合的な提供能力
法律に則った国の統治力
政府による弾圧や内戦を起させない民意による自治力
④国民個人の他社に対する行動は、自分自身の幸福、相手の幸福、そして社会全体の幸福にどのような影響を与えていますか。
⑤自国のソーシャルメディアのデータは、国民の幸福や苦痛の数値をきちんと反映されていますか。
 

 

調査対象の137国のなかで最下位はアフガニスタン。

 

ウクライナは92位、ロシアは70位だった。

 

こんなふうにして、一人当たりのGDP(国内総生産)、一人当たりの社会保障費、消費税率、貧富の格差のランキングを並べてみた。

これらのランキングは絶対的ではないが、こうやって並べると、その国で生きる人々が幸せを感じるとか感じないとかがなんとなくわかるような気がする。 

【ウエルビーイングで見る世界ランキング】 

     日本     中国   フィンランド デンマーク
世界幸福度 47位 64位 1位 2位
一人当たりGDP 32位 70位 18位 9位
報道の自由 68位 179位 5位 3位
一人当たり社会保障費 19位 7位 3位
消費税率
(%)
22位
(10%)
20位
(13%)
6位
(24%)
2位
(25%)
貧富の格差 -42位 -110位 -4位 -36位

 

※貧富の格差は、その順位から対象国の数を引いて表示した。

 

 

 

 

 

 

どうして、こういうランキングから並べるかというと、最近ウエルビーイングという言葉をよく聞くが、未来社会を考えるとき、この概念こそが重要だと思うからだ。

 

2.ウエルビーイングとは?

 

「ウェルビーイング(well-being)」は、健康、幸福、福祉などに直訳されます。このことばが初めて登場したのは、1946年の世界保健機関(WHO)設立時です。

世界保健機関憲章では、「健康とは、単に疾病がない状態ということではなく、肉体的、精神的、そして社会的に、完全に満たされた状態にある」とするなかで「ウェルビーイング」を使用しています

 

でも、幸福や健康と言っても抽象的な概念であり、人によってとらえ方は違う。

 

ウェルビーイングの概念として有名なものに、「PERMA」という指標があります。これは、「ポジティブ心理学」という自己実現理論を唱え発展させた、マーティン・セリングマンによって考案されたものです。
人は以下の5つの要素を満たしていると幸せである、とするもので、頭文字をとって「PERMA」と呼ばれています。

Positive Emotion(ポジティブな感情)
Engagement(何かへの没頭)
Relationship(人との良い関係)
Meaning and Purpose(人生の意義や目的)
Achievement/ Accomplish(達成)
 

 

 

その人にとって幸福だと思える環境を準備しても,その人がそう感じるかどうかはわからない。

環境そのものより、その環境に置かれた多くの人がどう感じるかの方が大事とも言える。

 

未来社会を考えるとき、今の苦痛を取り除くことが未来社会の到来と思うのか、人間が生きるのに適した何かユートピア的なイメージで捉えるのかによって、描く未来社会はずいぶん違ってくる。

 

 

3.マルクスが描いた未来社会

 

マルクスとエンゲルスは資本主義社会で資本家階級と労働者階級に分かれる生産関係をなくし、労働者階級だけが支配する社会を作れば、搾取のない未来世界ができると思った。

それが「共産主義社会」だ。
マルクスとエンゲルスがそう考えたのは、これまでの人類の歴史はつねに、生産手段の所有をめぐって、支配する階級と支配される階級に分かれていたという歴史観からだ。

そして、人間の平等意識などが芽生えたり、発展したりして、支配される階級がやがて力を持つようになると、その階級が次の時代の支配者になると考えた。
部族社会のなかから市民社会が生まれ、封建領主のなかからブルジョアジーが生まれ、支配者が交代してきた。
資本主義社会のなかで大量の労働者が生まれますので、やがてその階級が支配者になると考えたのだ。この考え方は、史的唯物論とも呼ばれている。
社会の支配は「国家」の単位で行われる。階級ができてから国家ができた。だから階級がなくなれば、やがて国家が消える。マルクスとエンゲルスはそう考えたのだ。

このあたりになるとマルクス、エンゲルスの理論は怪しくなるわけだが、マルクスの功績は現在の社会システム分析として、剰余価値説、資本蓄積論を導いたことだろう。


では、マルクス、エンゲルスが考えた共産主義社会とはどういう社会なのだろうか?

マルクス、エンゲルスは、資本主義社会の分析について『資本論』のような膨大な著作を残した。現在のシステムの分析はこの本で緻密で適切な概念を考えたのに、未来社会としての共産主義については大雑把な記述しかない。共産主義社会についての記述があるのは、『ドイツイデオロギー』の数行、『ゴータ綱領批判』の数行、『反デューリング論』からまとめた『空想より科学へ』の数行などそのイメージできるものはわずかなのだ。
それはマルクスやエンゲルスにもイメージが描けるほどの材料がなかったからなのだろう。
むしろこの二人の晩年は、未来社会よりも、古代の家族や国家の研究へ関心は向かっていた。

共産主義社会について、『ゴータ綱領批判』でマルクスはこう言っている。

「共産主義社会のより高い段階において、すなわち、分業のもとへの諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに、精紳的労働と肉体的労働との対立もなくなったあとで、労働が生きるための手段ではなく、労働その物が生活の第一の欲求となったあとで、諸個人の全面的な発達にともなって彼らの生産諸力も増大し、協同社会的富のすべての源泉がいっそうあふれるほど湧き出るようになったあとで、そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にのりこえられ、そして社会はその旗に次のような書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」

 

 

 

マルクスが思い浮かべる共産主義社会というのはどんなものなんだろうか?
生産手段が社会化されると、資本家階級による「搾取」がなくなる。
いや、それだけではない、もともと資本の論理が利潤追求だったので、そのために働かされていたことから解放される。
豊富な生産力ができたら、いつ働いてなんのために働いたっていいんだ。


こういう感じのことをマルクスは『ドイツイデオロギー』のなかでも書いている。

 

共産主義社会では、各人は一つの排他的な活動範域をもたず、任意の各部門で自己形成をとげることができるのだが、共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は、今日はこれを、明日はあれをし、朝は靴屋、そして昼には庭師、夕方には俳優になる、私の気のおもむくままに狩りをし、午後には漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする-狩師、漁夫、あるいは牧夫、あるいは批判家という固定的な専門家になることなく、私の気のおもむくままにそうすることができるようになるのである。(廣松渉版)

 

 


分業で生きるのではなく、例えば、ひとりの人が朝は靴屋の仕事をして、昼は庭師の仕事をし、寄るには俳優にもなる。
分業は階級的分裂によって労働者が強いられている活動なので、階級がなくなって、生産力が豊富にあれば、そういうスタイルの生活ができるようになる。マルクスはそう考えた。


『空想より科学へ』でエンゲルスはこう書いている。

社会の全員に対し、物質的に十分満ち足り、その上に日に日に豊富になっていく生活を保障すること、それはさらにまた、彼らの肉体的および精神的能力の完全にして自由な発展と活動とを保障する可能性、そういう可能性が今初めてここにある。それが正しくここにある。

・・・・

社会的生産の内部における無政府状態にかわって計画的意識的な組織が現れる。個人の生存競争は消滅する。かくして初めて人間は、ある意味では、動物界から決定的に区別され、動物的生存条件を真に人間的なそれに入る。

 

 


こんなイメージのままロシア革命は起きたのだろう。
ソ連は一応、階級がなくなり、計画経済になった。
ただ一つ大きく違ったのは、消滅するはずの国家が革命後より大きく、強い権力として労働者階級の前に立ちはだかったことだろう。

国家は死滅どころか、強化されたのだ。

 

このあたりで、マルクスが描いた社会は宗教上のユートピアとなんら違わず、そういうユートピアはディストピアとなって立ち現れたとも言える。

 

しかし、日本共産党などの科学的社会主義を標榜する政党は、今でもそのイメージで未来社会を描いている。

 

不破哲三氏は、「国家の死滅」に関わって、社会主義・共産主義の社会でルールを守るためには国家が必要だが、ルールが社会に定着して、みんなの良識でそれが守られるようになると国家がだんだん死滅していくと言う。そういう社会の例として、自らが統治するコミュニティとしての日本共産党の組織を例に出すのだ。
 

いったいそんな社会が可能なのだろうか。私は、その一つの実例として、日本共産党という“社会”をあげてみたいと思います。これは、四十万人からなる小さい規模ですが、ともかくひとつの“社会”を構成しています。そして、規約という形で、この“社会”のルールを決めています。そこには、指導機関とか規律委員会などの組織はありますが、国家にあたるもの、物理的な強制力をもった権力はいっさいありません。この“社会”でルールが守られているのは、この“社会”の構成員が、自主的な規律を自覚的な形で身につけているからです。ルール違反があれば、処分を受けますが、その処分も強制力で押しつけるものではありません。

 

 
革命による社会主義が未来社会だと信じている人々が未だに数十万人単位でいるのだ。
 
いやそんなことも考えず、毎日、機関紙の購読者を増やすこと、党員を増やすことが未来社会に近づくことだと信じているのが実情かもしれない。
今の党員はマルクス、エンゲルスはおろか不破哲三などの指導者の本も読まない人が多いらしい。
 
ディストピアに近づくために日々サティアンで修行し、地下鉄にサリンを撒いたカルト宗教の信者がいたが、それよりは罪はないともいえる。

しかし、そのユートピアまたはディストピアが中華人民共和国というような国家であるとなると、現実感が増す。