(チリの元大統領・アジェンデ)

 

日本共産党の第29回党大会が終わった。

 

松竹伸幸氏の除名処分がどうなるのかが世間的な関心だったのだが、再審査は否決された。

 

でも、考えてみると、幹部でもないヒラの党員の除名処分にどうしてそう頑なになるのだろうか?

異物と認定したら、即刻排除したがる党中央にも驚くが、それを党大会で喝采する党員群にはもっと驚く。

 

松竹氏は党綱領と党規約を攻撃した、分派活動をしたことが問題になっている。

今回の党大会の決定文書を読んでいて、それは綱領攻撃だといわれている「核抑止抜きの専守防衛」よりも、実は「党首公選制」に対する抵抗なのだと感じた。

それは「第3章 党建設――到達と今後の方針第三章」にある「(11)多数者革命と日本共産党の役割」をよく読めば分かるような気がする。

 

 

1.多数者革命による政権奪取

 

 

 社会進歩の事業のなかで共産党が果たすべき役割は何か、それを実行するためにはどういう組織をつくることが求められるか――これらの角度から、つよく大きな党をつくることの根本的意義を明らかにしたい。

 

①不屈性と先見性を発揮し、革命の事業に多数者を結集する

 

 日本共産党は、綱領で、日本の社会変革をすすめるうえで、つぎの三つの立場を一貫して堅持して奮闘することを明らかにしている。

 

 第一は、社会の段階的発展の立場である。つまり社会というのは、その時どきの直面する矛盾を解決しながら、一歩一歩、階段を上がるように、段階的に発展するという立場である。綱領は、日本が直面する変革は、異常な対米従属と大企業・財界中心の政治を根本から変革し、「国民が主人公」の日本をつくる民主主義革命であるとし、この革命をやりとげたのちに、社会主義的変革に進むことを規定している。

 

 第二は、多数者革命の立場である。すなわちこの階段のどの一段も、あらかじめの選挙で示された国民多数の意思にもとづいて上がっていくということである。

 

 第三は、統一戦線の立場である。社会発展のあらゆる段階で、思想・信条の違いを超えて、直面する矛盾を解決するための一致点で、国民の多数を統一戦線に結集して、社会変革を進めるということである。

 

 この三つは一体のものである。そして、それは緊急に直面している諸改革、民主主義革命、さらに社会主義的変革にいたるまでの社会変革のどの段階でも一貫して堅持していく基本的立場である。

 

 ここで重要なことは、この多数者革命のなかで共産党は何をやるのか、なぜ共産党が必要なのかという問題である。民主主義革命にしても、社会主義的変革にしても、その主体は、主権者である国民の多数者であって、国民の多数者が、自らのおかれている客観的立場を自覚し、どこに自分たちを苦しめている根源があるのか、その解決には何が必要かを理解し、日本の進むべき道を自覚してはじめて、革命は現実のものになる。それは「長い間の根気強い仕事」(エンゲルス)が必要となる。

 

 この仕事は、支配勢力の妨害や抵抗とたたかい、それに打ち勝つことなしにはできない。それは綱領にも「民主連合政府の樹立は、国民多数の支持にもとづき、独占資本主義と対米従属の体制を代表する支配勢力の妨害や抵抗を打ち破るたたかいを通じて達成できる」と明記しているとおりであり、また私たちが日々体験していることである。

 

 国民多数を結集し、民主的変革を担うのは、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人々による統一戦線である。綱領は、日本共産党は先頭に立って統一戦線を推進する役割を果たさなければならないこと、そのためにはつよく大きな党を建設することが決定的な条件となることを強調している。

 

 どんな困難にも負けない不屈性、科学の力で先ざきを明らかにする先見性を発揮して、国民の自覚と成長を推進し、支配勢力の妨害や抵抗とたたかい、革命の事業に多数者を結集する――ここにこそ日本共産党の果たすべき役割がある。

 

ここではこれまでの革命路線を書いている。

 

①段階的革命

②多数者革命

③統一戦線

 

という三本柱だ。

これは、政治学者の中北浩爾氏が言っているように宮本顕治路線と呼んでもよいだろう。

 

要するに国家権力を統一戦線にとる連合政権で獲得するという昔ながらの道筋だ。

これはヨーロッパの反ファシズム統一戦線からの発想なのだが、それが有効だったのは専制政治が行われていた第二次大戦前後と後進国の開発独裁の政権に対するものなのだ。

そのことがよくわかっていないのが、日本共産党なのだが。

 

不安定な連合政権で成立した社会主義政権が脆く崩れ去るということは、チリのアジェンデ政権の経験でわかると思うのだが、おそらくそういう教訓を導き出していないのだろう。実際には経済政策への反発や国際金融の急激な変化(ハイパーインフレ)、軍事同盟などの問題が大きいのだが、あれはCIAの謀略にすぎないという反省なのだろう。

 

もうひとつの道筋は、ロシア革命や中国革命のような内乱や戦争を利用して起こす暴力革命だろう。これには統一戦線も一定の役割を果たす。

しかし、血が流れることと、そういう暴力的に作った政治機構はやがて抑圧的になり瓦解することが、ソ連と東欧の経験からわかっている。

例外は中国やベトナムである。

 

 

2.民主集中制の革命党の先導

 

 

②民主集中制の組織原則を堅持し、発展させる

 

 日本共産党が、国民の多数者を革命の事業に結集するという役割を果たすためには、民主集中制という組織原則を堅持し、発展させることが不可欠である。

 

 民主集中制の「民主」とは党内民主主義のことであり、「集中」とは統一した党の力を集めることをさしている。

 

 民主的な討論を通じて決定されたことは、みんなでその実行にあたる――行動の統一は国民に対する公党としての当然の責任であり、それをどの程度まで実行しているかは別にして、どの党であれ行動の統一を党のルールとしている。

 

 同時に、多数者革命を推進する革命政党にとっては、民主集中制は、死活的に重要な原則である。行動の統一ができないバラバラな党で、どうして支配勢力による妨害や抵抗を打ち破って、国民の多数者を結集する事業ができるだろうか。

 

 わが党の民主集中制の原則は、外国から持ち込まれたものでなく、100年余の自らの歴史と経験を踏まえて築かれたものである。旧ソ連・スターリンによる干渉によって、党の分裂という危機に至った「50年問題」、旧ソ連、中国(毛沢東派)の覇権主義による激しい干渉との闘争で、わが党は民主集中制を党の生死にかかわる原則として打ち立て、全党の血肉にしていった。この原則なしには、今日の党は影も形もなかっただろう。わが党は、これからもこの原則をしっかり堅持し、発展させる。

 

 わが党を「異論を許さない党」「閉鎖的」などと事実をゆがめて描き、民主集中制の放棄、あるいはこの原則を弱めることを求める議論がある。しかし、党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている。異論をもっていることを理由に組織的に排除することは、規約で厳しく禁止されている。党のすべての指導機関は、自由で民主的な選挙をつうじて選出されている。これらの党規約がさだめた民主的ルールは、日々の党運営において厳格に実行されている。わが党が民主集中制を放棄することを喜ぶのはいったい誰か。わが党を封じ込め、つぶそうとしている支配勢力にほかならない。わが党は、党を解体に導くこのような議論をきっぱりと拒否する。

 

 同時に、わが党は、民主集中制を、現代にふさわしい形で発展させることを追求する。この間、とりくんできた、双方向・循環型の党運営は、草の根で国民と結びついた党組織の自発的創意と、中央委員会・各級党機関の積極的イニシアチブを、相互に発揮しあい、交流し、学びあいながら前途をひらくものであり、この努力をさらに豊かに発展させていく。統一した方針のもとに団結しながら、党員一人ひとりの個性や多様性、条件を尊重し、大切にしていくことも、さらに重視しなければならない。ジェンダー平等とハラスメント根絶のための自己改革にとりくんできたが、この点でもわが党のなかになお存在している弱点を克服し、国民多数から信頼される党に成長していくために、あらゆる努力を重ねていく決意である。

 

 

 

ここでは、論理的矛盾とウソと詭弁が混じってしまっている。

 

まず、論理的矛盾は民主主義の革命路線と政党の非民主主義性だろう。

 

民主主義革命にしても、社会主義的変革にしても、その主体は、主権者である国民の多数者であって、国民の多数者が、自らのおかれている客観的立場を自覚し、どこに自分たちを苦しめている根源があるのか、その解決には何が必要かを理解し、日本の進むべき道を自覚してはじめて、革命は現実のものになる。

 

国民を苦しめているのが何なのか明確には書いていないが、それは民主主義を破壊する政治のことだろう。

その解決をしなければいけない。

 

多数者革命を推進する革命政党にとっては、民主集中制は、死活的に重要な原則である。行動の統一ができないバラバラな党で、どうして支配勢力による妨害や抵抗を打ち破って、国民の多数者を結集する事業ができるだろうか。

 

しかし、そういう社会を作るには革命政党が必要であり、その政党はバラバラであってはダメで(派閥や潮流もダメ)、民主主義が一定否定されるという理屈である。

 

この矛盾に多くの党員は気がつかない。

 

次にウソはこの部分。

 

わが党の民主集中制の原則は、外国から持ち込まれたものでなく、100年余の自らの歴史と経験を踏まえて築かれたものである。旧ソ連・スターリンによる干渉によって、党の分裂という危機に至った「50年問題」、旧ソ連、中国(毛沢東派)の覇権主義による激しい干渉との闘争で、わが党は民主集中制を党の生死にかかわる原則として打ち立て、全党の血肉にしていった。この原則なしには、今日の党は影も形もなかっただろう。わが党は、これからもこの原則をしっかり堅持し、発展させる。

 

民主集中制はレーニンなどがつくったもので、コミンテルンの原則のひとつになっていた。そういう政党でないとコミンテルンに加盟できなかった。コミンテルンの日本支部として発足した日本共産党がその原則をもっているのは当たり前なのでそのことを隠す必要もない。

それなのにどうしてこんなこと書くのか?

それはソ連のイメージを払拭したいからなのだろうが、日本ではスターリン主義の批判が過去に間違ったほうに行ってしまった。

スターリニズムというのが、スターリンの特異な個性の問題だけになってしまって、トロツキーなどが指摘していた党の官僚主義的支配にはメスが入らなかった。

だからスターリンの悪いところを言ったら、「スターリニズム」と言われる中央集権的な運営を批判することになってしまった。

しかし、1950年代の問題を解決するには、結局、宮本顕治を中心にして異物を排除していくスタイルになった。スターリンがトロツキーやブハーリンなどを処刑や流刑地送りにして排除していったやり方の復活となってしまった。

それはひと頃収まっていたが、松竹氏の除名問題でまた復活した印象だ。

 

わが党を「異論を許さない党」「閉鎖的」などと事実をゆがめて描き、民主集中制の放棄、あるいはこの原則を弱めることを求める議論がある。しかし、党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている。異論をもっていることを理由に組織的に排除することは、規約で厳しく禁止されている。党のすべての指導機関は、自由で民主的な選挙をつうじて選出されている。これらの党規約がさだめた民主的ルールは、日々の党運営において厳格に実行されている。わが党が民主集中制を放棄することを喜ぶのはいったい誰か。わが党を封じ込め、つぶそうとしている支配勢力にほかならない。わが党は、党を解体に導くこのような議論をきっぱりと拒否する。

 

そしてこういう詭弁が会議決定で何度も繰り返される。

 

「党の外から党を攻撃する行為は規約違反になるが、党内で規約にのっとって自由に意見をのべる権利はすべての党員に保障されている」と言っているが、党大会で異論を発言した大山奈々子氏に対して、大会後、長時間にわたる指導がなされているのはどうしたか?

 

 

 

 

「異論をもっていることを理由に組織的に排除することは、規約で厳しく禁止されている」と言っていながら、党がバラバラではダメって、やっていることは違うこと。

 

これらがどうして起きるのかというと、多数者「革命」を指導する「革命政党」である日本共産党には「中央集権的集中制」が必要であり、「党首公選制」なんてことは、それを弱めるのでとんでもない!という感情なのだろう。

 

「革命」ということに感情的な意味が強すぎて、論理性がなくなってしまうのだろう。

つまり「飛躍」がなんでも許される思考になるのだ。

 

もし、こういう革命路線を取るのなら、中国社会を理想として、議会で変わるなら東ドイツの例を参考にすることになるだろう。

東ドイツは比較的高い生産力がある国家が社会主義に移行したのだった。

日本共産党は高い生産力の国が社会主義になったことはないと言っているが、東ドイツやチェコはそうではない。

でも、そのためには、多数派を取った後、反対党を国会で禁止するわけだが。

結局、中国と同じ管理型社会主義になる。

その時には確かに革命政党が必要で、そこが社会に浸透して、様々な団体を伝導ベルト的に運営することになる。

病院はすべて民医連病院になって、民商が巨大団体になるのをイメージすればいいだろう。

そういう社会を国民が果たして望むのか?

 

 

3.革命を「革新=イノベーション」と捉え直す路線にしてはどうか?

 

しかし、そういう「革命」を「革新」=イノベーションと捉え直すとどうだろうか?

 

この社会の民主主義を進める。

そこにはあらゆるイノベーションを推進する。

技術のイノベーションだけでなく、社会のイノベーションということだ。

 

そういう社会を推進する人たちの集まりとして革新政党があるというように考え直したらどうか?

そうしたら政党内での民主主義を徹底して、社会に見本を示そうということにならないだろうか?

 

党首公選というのはその第一歩のような気がする。

 

 

民主主義とイノベーションが両立するのはフィンランド社会を見ればいいだろう。

ノキアなんかは携帯の会社からネットワーク事業の会社にイノベーションで生まれ変わった。

保育費、教育費が大学院まで無償。

ただし、税金は高いけど。

労働時間は短く、芸術の水準も高い。

そういう国を目指すべきだし、そういう社会をつくることを推進する政党が必要だと思う。