このブログはフィクションである。

だから大山奈々子氏へこれは本人なのかという問い合わせは野暮である。

吾輩、パトラとソクラは夏目漱石なのであ〜る。


          *



吾輩 ( わがはい ) は大山奈々子である。

名前はまだ無いことは無い。

大山奈々子である。

 どこで生れたかとんと 見当 ( けんとう ) がつかぬこともない。

経歴はこちらにある。

 

 

 

 

京都市で生まれて、早稲田大学の教育学部に入り、学費値上げ反対運動をしておる学生などを眺めておつた。卒業後、京都の久御山高校で教師をしていた。入党したのはこのとき。

結婚して東京に戻り、日本語教師になった。その後、新婦人の活動をし、そのうち県議会議員になつた。

 

まあ、自分で言ふのもなんだが、党中央を信じる真面目な党員であり、職業革命家であつたと思ふ。

 

去年、松竹伸幸氏の問題が出てきたときもこんな感じだつた。

これは2023年3月15日に書いたブログである。

 

私は、党首公選制を求めて党内議論を経ずに発刊されたという松竹さんの本も、そのために松竹さんが除名されたことを「攻撃」しているという批判的なメディアの論説も読めていない上に、中央本部と松竹さんの間でどんな交渉がなされたかも読めていないので、大方は信頼している中央の判断を受け入れるしかない。

 党の議員でありながら、仲間も深く傷つき、周りの支援者も大変心配してくださっている今回の事件にこんなスタンスですみませんと思いつつ。

夫は、一般企業ならあり得ん、と批判してくるが、弾圧と解体の攻撃を受け続けた革命政党の存続をかけたルールは、一般的な社会通念では計り知れないものであることは伝えている。

ただ、違和感を持つのは、私程度の情報しかないであろう多くの仲間が、共産党は民主的議論が許されています‼️と強弁していること。

もちろん規約では許されています。実際私も議員になる前から党の方針とは違うことを提案したり、党の方針を批判したりしています。でも民主的な話し合いの中で解決、昇華してきました。私のごく身近な組織は本当に民主的です。

でも、そんな地域ばかりかしら。

異論を唱えて周りから袋叩きにあったという告発や、言論封じをされたという声が聞こえてきます。

(もっともそういう組織は共産党だけではないでしょう)

今回のことは自身を含め、真に民主的な組織運営を行なっているかどうかそれぞれが自省する機会にしなければならないなと思うのです。

そもそも共産党に過大な幻想をもってはダメで、党もまた人間集団。誤りも失敗もあります。

例えば人権に関する意識が醸成されるには時間もかかり、中央幹部が数年前ハラスメント研修を行ったという話はいいぞいいぞと思いました。同性愛に関する誤った発信を謝罪したこともいいねいいねと思います。私自身も折に触れ人権に関する研修を受けなければと思っています。

私は30年以上党に在籍しています。共産党の綱領はかつては党員の資質として「高潔な人格を持ち」と書かれてあってビビったことがありました。今はそれなくなりましたけど。(それはなぜ?)
実際には高潔な人も私のようにそうでもない人もいます。そんな人間集団を常にブラッシュアップするには新しい人に党に入ってもらったり、各自が自省することが重要です。党は党として揺るぎないものではなく常に生成発展していく組織なのだと思います。「党の新陳代謝を促進するためにどうぞ入ってください」とお仲間になっていただくことをお願いしています。「いや、僕はその論で行くともうやめていくべき年齢だから」と言われることもありますが、年齢ではなくて、党の外にいた方に中に入っていただいて客観的ご意見をいただくことが必要なのだと思っています。

どこの組織も完璧な人間集団なんてないと思いますが、見渡したところ、共産党が民主的であることは相対的には確かです。1期目の議員には発言権もない政党もちらほら。

政策でもなんでも共産党の主張とは違う部分がある、という方は多いのですが、一番国民の命と暮らしを尊重している党であることは確かなので、共産党を大きく伸ばしていただきたいと思っています。

高潔な人間集団になるべく国民に恥じない組織であるべく自身の研鑽と組織的にも見直しを図っていきたいと思います。

JCPカフェの楽しいリンクがありますのでご覧ください。こちらです。

写真は党本部です。

 

 

 

松竹さんの本も、そのために松竹さんが除名されたことを「攻撃」しているという批判的なメディアの論説も読めていない上に、中央本部と松竹さんの間でどんな交渉がなされたかも読めていないので、大方は信頼している中央の判断を受け入れるしかない。

 

読めていない。

ずつと読めていないのである。

そういうことにしておく。

 

こんな感じなので、今年の党大会のときも気持ちは「党中央とともに」と思つておつた。

 

2024年1月20日のXである。

 

 

なので、そう思つて党大会の代議員として発言したのだ。

 


問題は出版より除名処分 

共産党「怖い」と思われる


 
〇神奈川 大山奈々子 代議員

松竹氏の除名問題で顕在化した党内民主主義の課題についてです。昨年地方選前に松竹氏の著作が発刊され、その後まもなく彼は除名となりました。私は本を読んでいませんが、何人もの人から『やっぱり共産党は怖い』『除名はだめだ』と言われました。将来共産党が政権をとったら、国民をこんなふうに統制すると思えてしまうと。問題は出版したことよりも除名処分ではないでしょうか。一時期人気を博した「希望の党」から人心が急速に離れたきっかけは、小池百合子知事の「排除します」という発言でした。あのときに国民が感じた失意が、いま共産党に向けられています。
異論を唱えたから除名したのではないと繰り返しわが党の見解が報じられていますが、そのあとには松竹氏の論の中身が熱心に展開されますので、やはり「異論だから排除された」と思われてしまうんです。
この問題でメディアによる攻撃論が訴えられますが、攻撃の理由を与えてしまったのは党の判断である異状、党の判断に間違いがないというのであれば、わが党が民主的である少佐として、松竹氏による再審査請求を適切に受け止めて、国民の疑念を晴らすべく透明性をもって対処することを要望します。『除名』は対話の拒否にほかなりません。排除の論理ではなく包摂の論理を尊重することは、政党運営にも求められています。

 

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-01-18/20240118-009.pdf

(『しんぶん「赤旗」』1月18日付より)
 

 

そうしたら、いろいろ批判が起きた。

これには吾輩も面食らつた。

 

どうして「本は読めていない」と言ふ必要があつたのか?

と聞かれた。

 

 

それには、こう答えた。

 

 

すると、入江雅子という人のこんなついーとがあつた。

 

あなたの発言で

一番よくない

と思うのは

党外の人の

日本共産党は怖い

という誤解をとく

努力をせず

誤解そのままで

松竹さんの復党を

希望したことです。

 

たとえ

松竹さんが

復党できたとしても

異論を排除する党

という世間の見方は

かわらない。

世間の言うままに

規約違反の党員を

許すとは。

 

午後10:46 · 2024年1月24日

·
ふんどしみたいに長いついーとであつた。

 

発言の修正を指摘してくれる親切な人もいた。

 

 

吾輩は誤りに気付いた。

 

 

だが、それは大きな問題ではないと言ふてくれる人もいた。

 

 

 

 

横道に逸れそうになるが、ふんどしみたいに長いついーとにはこう返した。

 

 

入江雅子という人は悪い人ではなかつた。
これで、わかつてくれた。

 

「党外の人の声のみをもって」発言しているというついーとがあつた。

それにはこう答えた。

 

 

 

田村智子氏の結語を「代々木文学」と呼ぶ人もついーとした。

 

 

 

吾輩の発言が雑だと言われる。

けれど、しんぶん赤旗に載ったあれは全文ではない。

 

 

実は要約すら発信できないのである。

 

 

離党について、心配して、ついーとしてくれる人もいる。

 

 

離党か。

党内で正直に発言することがこんなに苦しいのであるならそれも脳裏によぎる。

 

吾輩はあらためて考へた。

むむむ。

吾輩にとって、離党は死の苦しみにも匹敵するであらう。

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』の最後はこうなつておる。

 

その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面おもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻がいても、あせっても、百年の間身を粉こにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹かかっているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

 

夏目漱石『吾輩は猫である』結末部分

 

大山奈々子よ、けつして死ぬ猫になってはゐけない。

前足も、後足も、頭も尾も、がりがりやつて、沈みゆく吾に最期まで抵抗するのだ。