松竹伸幸氏は除名処分の再審査請求を求めていた。

それが昨日棄却された。

説明したのは山下芳生副委員長だ。

 

これがその全文。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-01-17/20240117-004.pdf

 

パトラとソクラは、これを読んでこう考える。

 

1.「党規約の運用」の批判を「党規約そのもの」への攻撃にねじ曲げる理屈

松竹伸幸氏は党規約を攻撃しているのではなく、その運用について「異論があることを可視化」するように求めているだけである。しかし、そういう運用への批判を、山下芳生氏は「党規約を『異論を許さないもの』であるかのように攻撃した」と言っている。
これは「党規約の運用」の批判であって、「党規約そのもの」への批判ではない。
それに対して、山下氏は1958年の党大会では反対意見が反映され採決が見送られたことを書いているが、それ以来そういうことはないことも事実であるし、「特別冊子」で批判も載せていると言っているが、それしか異論を可視化する場がないことも事実である。松竹氏はそのことを批判しているだけである。共産党は異論を可視化する紙面や機会を増やせば、開かれた政党としてイメージもよくなるだけのことなのに、頑なに今のままでよいと山下氏は言っていることになる。どうして山下氏は松竹氏の運用への批判を党規約そのものへの批判だとねじ曲げてまで、頑なに異論の可視化の努力を拒否するのだろうか? これは今の幹部の民主主義に対する感覚を物語っているとしか思えない。

2.党首公選制は対立を生みながらも民主主義を実現することの不理解

松竹氏は党首公選制を党内の民主主義を実現するために民主集中制の枠内で実現しようとしている。そのため「異論を議論するのは公選期間中にとどめ、それ以外の時期に拡大しない」ことなどを主張している。それは民主集中制がもともと民主主義と中央集権制のトレードオフの関係にあるからの工夫である。しかし、山下氏は、そのことを「党首公選制が『分派の形勢に繋がる』可能性があることを自ら認めている」と批判している。では、例えば、大学で学長選挙をすると大学のなかに対立を生む可能性があるのになぜ学長選挙をしているのか?というと問いに答えられるだろうか?それは市長選挙の例でもいい。組織のトップを選ぶことはもともとそういう矛盾を孕みながら民主主義を実現しているのである。このことが理解できない政党が政権を取れば社会はどうなるのか、その危険性を露呈している。

3.連合政権での安保容認を共産党の永遠の原則にせよという曲解

共産党は安保廃棄を掲げながら、連合政権ができたら「安保容認」の方針にすると言っている。それは連合する相手の政党にも国民にもわかりにくい。だから連合政権では「安保容認」だと最初から示せばよい。松竹氏の主張はそれだけのことだ。松竹氏も世界情勢の状況が整えば安保を廃棄すればよいと言っている。共産党と松竹氏は同じ事を言っているのだ。連合政権は誰が見ても、安保廃棄に至る「中間的段階」なのだ。それをそういう段階は必要でないと山下氏は言っている。では、連合政権は不要ということなのか? これはどう読んでも論理矛盾で理解不応だ。

4.連合政権での自衛隊合憲を志位委員長と松竹氏の主張が違うという詭弁

志位委員長は「綱領教室」でも連合政権では自衛隊を活用すると言っている。しかし、その内実について具体的には述べていない。つまり、共産党には安全保障政策がないのだ。松竹氏はそのことを言っているだけであって、志位氏の主張をむしろ安全保障の考えで補完しているにすぎない。山下氏は共産党に安全保障政策がないこと自体を詭弁によって、「志位氏の主張は一貫している」という言説に変えている。問題の本質を見ることから逃げてしまっている。

これでは共産党が政権を取ったら、いったいどうやって侵略から国を守るのか、国民は一切理解できない。

5.鈴木元氏と松竹氏は分派活動を行ったというこじつけ

編集者である松竹氏は鈴木元氏に出版の時期を早くするように促した。これを分派活動と言っている。鈴木氏と松竹氏ではその著書を読めば分かるが、社会のあるべき姿、共産党のあり方の考えがまったく違っている。ここでは「分派活動」とは何かという問題が「ことの本質」だ。松竹氏は「分派活動」の定義を求めている。しかし、山下氏はそれに答えず、党規約第3条は「党内に派閥・分派をつくらない」という規定をもって、分派の禁止に松竹氏は違反しているという循環論法で反論している。つまり、分派活動とは何であるのかという「ことの本質」には何も答えていないのである。これは今後、裁判でも問題になるだろう。

以上、山下氏の再審査により除名処分を覆さないという説明はなんら説明になっていない。

それなのに「『除名処分決定文』が述べている処分理由に対する反論がまったく出来ていない」と山下氏は言っている。

反論ができていないのは山下氏のほうなのだ。

よって、この再審査は不当である。党員の方々は、もう一度山下氏の説明全文とパトラとソクラのこの文章を読み比べてほしい。

山下氏の主張の方を「論理的」だと思うのは、「党中央に従うべき」「常に党中央は正しい」というようにマインドコントロールされている党員だけなのではないか?

マインドコントロールというとまた怒り出す党員がいるだろうが、何が「論理的」かを理解できないことがスターリン時代からの共産党的マインドコントロールなのだ。知らず知らずのうちに「党中央=善」フレームが脳内に出来上がっている。それを壊すのは難しい。おそらく、離党=脱会しかない。カルト信者は脱会して初めて自分のマインドコントロールに気付くものだ。

 

 

しかし、これが今の日本共産党の限界なのだろう。

まだ再審査について見解を述べただけましだ、と思う人々も多いだろう。

 

これが日本共産党の限界、それを露呈した。

松竹氏の再審査請求と何人かの党員の反乱は最後のチャンスだった。

ここで、日本共産党が「民主主義」とは何か、党員の基本的人権と発言の自由について考えるべきだった。

開かれた党、人間の顔をした党に再生するきっかけにすべきだった。

しかし、これまでと何も変わらなかった。

 

つまり、この党大会は、日本共産党にとって「終わりの始まり」なのだろう。