(その1)50年問題

『日本共産党の百年』が出版されました。
この政党が歴史をどのように総括し、そして今後どのような方向を目指すのか?
少し考えてみたいと思います。

「しんぶん赤旗」では8月16・17日にこの出版に関わる座談会が掲載されました。
参加者は、編纂作業に参加した田中悠書記局次長、山口富男社会科学研究所副所長と、村主明子学習・教育局長代理、国民運動委員会の岩崎明日香さんです。

 



現在、除名処分された松竹伸幸氏が来年の党大会で再審査による復党を目指しているのでとくにその視点で2つのことだけを見てみたいと思います。

ひとつは「50年問題」から新たな路線を作った時期です。
座談会でもそのことが語られています。
 

山口 『百年』史では、55年~58年までの時期を党史上の「きわめて重要な時期」と位置づけて、その過程を立ち入って叙述し、「武装闘争方針の否定こそが、六一年綱領を確立する出発点となったのです」という規定づけを行っています。

 

田中 この時期を一つの章にしてみると戦後、党の活動が合法的地位を獲得し、占領下での活動から綱領路線が確立され、また自主独立の立場を定めるまでの波瀾(はらん)万丈の歴史を一つながりに捉えることができる。分かりやすいまとめだと思いました。

 

党史上の最大の危機、「五○年問題」という問題を克服し、その痛苦の体験の中から今の綱領路線につながる非常に大事な方針を導き出していく。武装闘争方針の否定から今の路線がつくられていったことは、共産党は、「いざというときには暴力革命を捨てていない」というような論に対して、歴史の事実から明快に反論していると思いました。

 

 


確かに、ソ連、中国からの路線の指導があり、混乱した時期でした。
1955年には日本共産党第6回全国協議会(六全協)が開催されました。
1958年には新たな路線が確立する第7回党大会が開かれます。
六全協について、中北浩爾『日本共産党』にはこう書かれています。

 

日本共産党は七月二七日から二九日にかけて党本部で六全協を開催した。

最も重要なのは、決議「党活動の総括と当面の任務」を採択したことである。この決議は、一九五一年綱領のすべての規定か完全に正しいと述べる一方で、それを決定した五全協以降の最大の誤りとして「極左冒険主義」を挙げ、民族解放民主主義革命に向けて大衆との結びつきを強めるとともに、社会党や労農党との統一行動を実現しなければならないと主張した。

また、労働運動での「左翼セクト的な誤り」を自己批判し、党の綱領や政策を労働組合に機械的に押しつけることを戒めた。さらに、個人中心的で家父長的な指導を反省し、集団指導 の原則を厳格に実施すべきと明記した。

また、「党の統一に関する決議」では、党の誤った方針によって党から離れた同志などに復帰するよう呼びかけた。

 

 


現在の党員はどう捉えているのでしょうか?
 

(国民運動委員会の岩崎明日香さん)

 

岩崎 私もこの章が一番、一つの章にこの期間を区切ったことの意味を考えながら読みました。党史上の「きわめて重要な時期」ということに関わって、志位委員長が記者会見で、党分裂という最悪の危機を乗り越え、自主独立の路線と綱領路線という未来ある路線を打ち立ててきた、先達の理性と勇気に深い敬意を覚えざるを得ません、と言われたことがすごく印象に残っています。

特に、「五○年問題」の歴史的教訓が三つ書かれているところで、この第3の、党の団結と統一を守ることを「党の生死にかかわる重要性」というような強い表現、掘り下げた記述になっているのはよくつかみたい中身だと思っています。

 

山口 「党の生死にかかわる」との叙述にも、この時期の重要性が反映しています。

 

村主 「党史上の極めて重要な時期」として、本当に苦労したときだった。その中から攻撃に立ち向かう足場をつくり、踏み出した先輩たちの苦闘と開拓は、現在の党の安保政策に対する攻撃、党の組織のあり方への攻撃に対しても、これは絶対に打ち破れる、打ち破らねばという確信を与えてくれます。私は、「党首公選制にすればいいじゃない」と言う方には、派閥や分派をつくることがどんなに党にとって有害なことか、この時期の苦闘を知っていただきたい。特に若い党員の方には、諄々(じゅんじゅん)とこういうことがあってね、こうだったんだよ、というように伝えていきたい。

 

 


ああ、これは「松竹伸幸」批判ですね。

 

村主 「党首公選制にすればいいじゃない」と言う方には、派閥や分派をつくることがどんなに党にとって有害なことか、この時期の苦闘を知っていただきたい。特に若い党員の方には、諄々(じゅんじゅん)とこういうことがあってね、こうだったんだよ、というように伝えていきたい。

 

村主さん、ひどいことを言いますよね。


党員のなかでは、50年問題は派閥や分派問題と捉えられているようですね。

中北浩爾『日本共産党』ではこのあたりがこう書かれています。

こうした準備のうえで、日本共産党は七月二七日から二九日にかけて党本部で六全協を開催した。

最も重要なのは、決議「党活動の総括と当面の任務」を採択したことである。この決議は、一九五一年綱領のすべての規定か完全に正しいと述べる一方で、それを決定した五全協以降の最大の誤りとして「極左冒険主義」を挙げ、民族解放民主主義革命に向けて大衆との結びつきを強めるとともに、社会党や労農党との統一行動を実現しなければならないと主張した。

また、労働運動での「左翼セクト的な誤り」を自己批判し、党の綱領や政策を労働組合に機械的に押しつけることを戒めた。さらに、個人中心的で家父長的な指導を反省し、集団指導の原則を厳格に実施すべきと明記した。

また、「党の統一に関する決議」では、党の誤った方針によって党から離れた同志などに復帰するよう呼びかけた。

以上の決議の沿って、六全協では規約が大幅に改正され、それに伴い党機構が全面的に刷新された。新規約では、マルクス・レーニン主義を掲げながらも、それまで存在した「スターリン主義」などの語句が削除されたほか、党員の権利と義務に関する条項などで党内民主主義を保障し、党による大衆団体の引き回しを防止するための諸規定も設けられた。また、スターリン死後のソ連共産党を参考にしてポスト徳田の集団指導の原則を具体化するため、従来の政治局を廃止して常任幹部会を設けるとともに、書記長に代えて第一書記を置き、中央委員会をはじめとする機関や役職の権限を明確化した。


そもそも50年問題って何が契機で起きたことなんでしょうか?

50年問題について、この座談会では、ちょっと誤解を受ける総括を日本共産党がしていますね。

 

山口 第2節は、スターリンの干渉と「五○年問題」です。党の前進を恐れて、立ちふさがってきたのはアメリカ占領軍です。党を「民主主義の破壊者」と攻撃し、松川事件その他の謀略事件を、党と労働組合が引き起こしたかのように宣伝して弾圧に出ました。

この時期に、より深刻な形でわが党の進路を破壊したのが、ソ連のスターリンによる謀略的な干渉でした。この干渉に呼応して分派をつくった人々が、公職追放という、中央委員会への弾圧を利用して、中央委員会を解体、党を分裂させる暴挙に出る。

これが今日、私たちが「五○年問題」と呼んでいる、党に危機的な事態をもたらしたわけです。

 

これだと、まるで「悪者=スターリンの干渉を受け入れた者=党を分裂させた者」「善者=スターリンの干渉を受け入れなかった者=党を分裂させなかった者」みたいな対立に見えますね。
でも実際はそんな単純な対立ではありません。

中北浩爾『日本共産党』では書かれています。
 

一九五〇年一月六日、コミンフォルムの機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に解論員という筆名で掲載された論文「日本の情勢について」は、日本がアメリカ帝国主義の植民地な支配に置かれ、その軍事的冒険のため基地となり、民主主義が抑圧されているにもかかわらず、野奴が占領下でも社会主義への平和的移行が可能であると主張としていると批判した。ソ連は水面下で日本共産党に平和革命路線の転換を求めていたか、踏み切ろうとしなかったため、アメリカおよび占領軍と対決するよう公然と促したのである。

この論文の執筆にはスターリンが関わったといわれ、翌日、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」に転載される。それは国際共産主義運動の指導党のソ連共産党から、野坂の理論が「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないと否定されたことを意味した。

日本共産党は、外電を「デマとみなすなど混乱状態に陥った末、一月十二日に政治局の声明「日本の情勢について」に関する所感を発表し、コミンフォルム批判の結論を、受け入れ例人れ難い」と表明した。受け入れを拒否した理由は、「日本における客観的ならびに主観的条件は、一定の目的を達するにあたって、ジグザグの言動をとらなければならない状態におかれている」という一節に表現されている。すでに民族独立の課題を掲げていた日本共産党は、アメリカ帝国主義批判に反対ではなかったか、それを実現するには占領軍の弾圧を避けることが戦術的に賢明であり、かつ可能だと考えていた。

この「所感」は「共産党が、いかに行動すべきかについて、十分な考慮をはらっていないことを、きわめて遺憾とする」と述べたうえで、「同志野坂は、もっとも勇敢な人民の愛国者として大衆の信順をえている」と締め括り、野坂を擁護した。


つまり、コミンフォルムという国際共産主義運動の本部から日本革命について、アメリカ帝国主義と対決し、中国のように武力も動員した急進的な革命をするようにという指示に対して、野坂らは自主独立のために拒否するという「所感」を発表したのです。

 

 



「所感」の内容はこちら。

○第三章 共産党 第一節 コミンフォルム機関紙の野坂批判
「日本労働年鑑 第24集 1952年版 発行 1951年10月30日 編著 法政大学大原社会問題研究所」

http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/research/dglb/rn/rn_list/rn1952-711.pdf

 


コミンフォルムが日本の状況を理解せずに方針を押しつけるのは「人民大衆の受入れ難いものである。同志野坂は、もっとも勇敢な人民の愛国者として大衆の信頼をえており容認できない」というのが「所感派」といわれる当時の党中央の主流派である野坂参三、徳田球一らの主張です。

 

自主独立、平和革命の考え方です。


しかし、コミンフォルムの指示を受け入れよとする宮本顕治らの「国際派」はそれに対立したのでした。
この時点では宮本氏らが武装闘争で革命を勝利させた中国共産党の主張を是とする国際主義とする立場だったのです。

当時の国際派とはコミンフォルム派なのです。

後に宮本氏自身がこう書いていました。
 

徳田を中心とする個人中心的指導が強まり、戦時中の変節者伊藤律などか徳田の女婿にあたる西沢隆二などとともに徳田の周囲にたむろして、党中央の正規の民主的運営が妨げられていた。一九五〇年一月のコミンフォルムの批判は、反帝闘争を重視するという積極的な内容を持っていたが、そのやり方は明らかに大国主義であった。しかし、私をふくめ当時の党指導部の者は、コミンテルン時代の名残りから。まだコミンフォルムやソ連共産党などに対する事大主義を脱していなかった。

 

『日本共産党50年問題資料集』より


しかし、この後は、帝国主義の評価や平和革命か暴力革命かをめぐる路線の対立と、「所感派」「国際派」という人的つながりの対立が分裂と合体を繰り返しながら展開されます。コミンフォルムの指示を受け入れたことが決定打になり、占領軍は共産党を公職追放します。それで共産党の幹部も地下活動に入り、武装闘争が方針化されました。


確かにこのとき地下に潜ったのが所感派の人々でしたが、日本共産党としては臨時指導部があったのです。
それは末端の党員にとっては消しがたい事実です。
 

こうした事態が生まれた原因が,当時の学生運動に圧倒的な影響力を及ぼしていた日本共産党の指導部がこの年1月のコミンフォルムによる「野坂理論批判」の衝撃を契機に分裂し,全学連の中央執行委員会を構成した活動家たちはその選出母胎である東大・早大の学生細胞の主流とともに党の「国際派」を支持し,これに対していわゆる「所感派」は北大イールズ闘争の一週間前の5月9日,東大・早大の学生細胞と全学連書記局細胞の解散を指令したこと,そして所感派幹部は6月6日のマッカーサーによる共産党中央委員の公職追放を機に自派の「臨時中央指導部」を残して地下に潜行(主要幹部は中国に密航)し,6月27日には臨中指導部がさらに東大・早大・中大細胞の中心メンバー38名を「悪質な党破壊者」として除名するという措置にまで出たこと、にあった。 

 

○中野 徹三「1950年前後の北大の学生運動――その位置と意義を再考する」

https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/651-02.pdf


この武装闘争方針は北海道大学では白鳥事件につながるのです。

 

その後52年1月に白鳥警部襲撃計画が具体化するなかで,ポンプ職人で円山居住細胞の佐藤博氏(射殺犯として追及され,中国に亡命,死亡)が加わったが,彼と元電通労働者でパージになり常任となった宍戸氏を除いて,中核自衛隊員がすべて北大の学生党員から構成されたのは,北海道党の軍事路線の際立った特徴といってよい(これ以外に,中核自衛隊と呼ぶものは道内にはなかった)。

さらに注目すべき点は,東大や早大などの学生党員の活動が「新綱領」の軍事方針のもとで(この点では国際派も主流派に屈服して)農山村工作や基地闘争などにかなり多様な形態で取り組まれたのに対して,北大の学生党員の軍事路線にもとづく活動はほとんどこの中核自衛隊の活動一本に集約されたものとなり,しかもそれが早期に白鳥事件というショッキングなかたちで出現して警察権力の強力な追及を招いたため,一挙に防衛的対応を余儀なくされ,また北海道という諸条件もあって山村工作などもほとんど試行されることもなく終った,という事実である。

 

・・・・・・・

 

52年の1月21日夜,札幌市警警備課長白鳥一雄氏は,自転車で帰宅途中に後ろから付けてきた男にピストルで射殺された。そのショッキングなニュースが各紙の紙面を覆っていたたしか23日に,私は呼び出されて,文学部の自治会の部屋に行った。そこには法経学部の自治会委員長をやっていた大谷高一君がいた。彼は裏の方面の組織にも関わっていたが,その彼が黙って私に紙切れを

見せた。そこには「白鳥事件は党のやったことではないという日和見主義的な意見を克服して,党の意志の革命的統一を図る必要がある」ということが書かれていた。私は,とうとうここまでやったのか,と改めて暗然とした気持ちになり,いくつか質問しようとすると,彼は身振りでそれを拒み,部屋を出て行った。後で判ったことだが,この日の朝には「見よ天誅遂に下る!」のビラが札幌委員会の名であちこちで配られて,このテロ行為を全面的に擁護していたのだった。

ところがその翌日か翌々日にもう一度呼び出されて大谷君にやはり黙って紙切れを見せられた。

そこには「この事件は愛国者の行為であるが,共産党のやったことではないということに,合法的宣伝は統一する。」とあった。今回も私が質問しようとすると,彼は無言で拒否して立ち去った。

これは事実を知らなかったらしい共産党道委員の村上由氏が23日と24日に行った混乱した記者会見の内容(1回目は党の関与を否定,2回目は党は個人テロはやらないが事件は愛国的行動とみなすという)に対応するものであるが,私はこの2回の紙切れと「天誅ビラ」で,この事件は札幌党の軍事組織が主体となって実行したものだ,ということをこの時確信した。

なぜなら,この時点でこういう内容のメモを非公然のルートで党内に回覧する,という行為は,事件を企画し実行した者以外には絶対にできないことだから,である。このメモは勿論私だけでなく,おそらく札幌の主要な職場と地域の細胞の責任者の間に回覧されたことは確かであるから,当時の札幌の党員の多数は,党のルートや会議を通じて事件の真実を衝撃とともに知ったことになる。

 

○中野徹三(前掲書)

 

 

 

方針転換された六全協の後、日本共産党の第七回党大会で路線が確定します。

中北浩爾『日本共産党』ではこう書かれています。
 

第七回党大会では、新たな中央委員を決定する際、中央委員会と大会代議員から推薦された候補者について、役員選考委員会か厳格な基準に従って絞り込んだうえで、競争を伴う選挙によって得票の上位から当選者を決めるという手続きがとられた。実際、三七名中六名が落選した。人事でも党内民主主義が貫かれたのである。こうした手続きを通じて、紺野、西沢隆二ら旧所感派の幹留が除かれた。

また、新たな規約が制定され、常任幹部会か幹部会に改められるとともに、第一書記に代えて議長と書記長のポストが設けられた。そして、八月一日と三日の中央委員会総会で、議長に野坂参三、書記長には宮本が選ばれ、九名の幹部会員と七名の書記局員も決まった。幹部会員と書記局員を兼任するのは、宮本とその盟友の袴田里見、旧所感派の春日正一の三名であり、宮本の優位が固まった。中央統制監査委員会議長には、党章草案に異を唱えた春日庄次郎が選出された。


ふ~ん。今よりはちゃんと選ぶべき候補者がいて、実質的な競争選挙が行われていたんですね。

でも、党員はそんなこと書かれていない『日本共産党の百年』をこう読んでいるんですね。
 

村主 「党首公選制にすればいいじゃない」と言う方には、派閥や分派をつくることがどんなに党にとって有害なことか、この時期の苦闘を知っていただきたい。特に若い党員の方には、諄々(じゅんじゅん)とこういうことがあってね、こうだったんだよ、というように伝えていきたい。

 

(村主明子学習・教育局長代理)

諄々(じゅんじゅん)とね。
諄々って「よくわかるように、繰り返し話して聞かせる」(精選版 日本国語大辞典)ってことですね。

 

村主さん、ちゃんと諄々と伝えてくださいよ。

 

まず、分裂したのは、コミンフォルムみたいなものに頼ろうとしたからです。

 

ちゃんと自分の頭で考えた野坂参三のほうが、宮本顕治よりもこのときは正しかったのです。

 

地下に潜ったのは、GHQが共産党幹部が公職追放したこと、所感派(野坂派)が国際派(宮本派)の主張を受け入れてコミンフォルムの方針の武装闘争路線を採用したことが遠因となって、暴力革命路線が選択されてしまったのです。

宮本派が暴力革命を是認していたという意味ではありませんが。

このときには臨時中央指導部があり、全国で真面目に戦った党員がいたのです。

 

それを伝えなきゃね。

 

『されどわれらが日々』って小説もあります。

真面目に自分の人生、青春を日本共産党に捧げた人たちもいるのです。

 

それを伝えなきゃ本当の反省になりませんよ。

 

太平洋戦争を起こした天皇陛下が、あれは軍部が起こした戦争にすぎない、わしゃ知らん!なんて言ったらどうしますか?

 

共産党指導部が起こした武装闘争をあれは我々の派とは違うってのは、たんなる逃げ口上です。

 

 

それでも、党がまとまるなかで、実は党首公選制につながるような民主的な選挙が行われていた時期もありました。

それを宮本顕治が自らの体制を固めるために、スターリン型の民主集中制を復活させたのです。

 

これらをちゃんと諄々と整理して伝えてくださいよ。

スターリンの誤りって意味がわからなくなりますからね。

 


中北教授はこう書いています。

このように、六全協を継起に活性化した党内民主主義は、宮本にとって両義的な意味を持った。

すなわち、旧所感派の幹部を弱体化させるという点ではプラスに働いたが、新たな綱領の採択が先送りされるという点ではマイナスに作用した。

書記長ポストを手に入れた宮本は、いよいよ自らが起草にあたった綱碩の最終決定に向けて党内統制を強化していく。その結果、武装闘争の廃墟から芽吹いた党内民主主義は後退の道を辿る。民主集中制のもとで分派が禁止されている以上、中央指導部の各個撃破に対抗することは非常に難しかった。

党から給与を支給されて活動を行う常任(専従)活動家が組織の中枢を担っていたことも、そのような傾向に拍車をかけた。第七同党大会では、代議員の七一・九%を常任活動家が占めていた。


つまり、50年問題って、時系列的に4つの視点が必要です。

①    そもそもどうして党の方針が分裂するようになったのか?
②    どうして地下に潜ることになり、指導部はどうなっていたのか?
③    路線が統一されるときに、どのようにまとまっていったのか?
④    どうして党運営で民主主義的要素がなくなっていったのか?


「悪者=スターリンの干渉を受け入れた者=党を分裂させた者」「善者=スターリンの干渉を受け入れなかった者=党を分裂させなかった者」みたいな対立はウソなんです。

これだと宮本派がすべての点で正しいように思えますが、実際はこうです。

①    そもそもどうして党の方針が分裂するようになったのか?

→ 野坂参三の自主独立路線に宮本顕治たちがコミンフォルムを支持するように主張し、対立した。

②    どうして地下に潜ることになり、指導部はどうなっていたのか?

→ 共産党がコミンフォルム路線を受け入れるようになりGHQが共産党幹部を公職追放したから公然活動ができなくなり、臨時指導部を作り、武装闘争路線になった。

③    路線が統一されるときに、どのようにまとまっていったのか?

分派として除名した者も復活を呼びかけ、代議員も競争選挙で民主的に選んだ。
しかし、そのことで綱領路線の採択が遅れた。

④    どうして党運営で民主主義的要素がなくなっていったのか?

書記局長になった宮本顕治は、対立する者を除名するなどして、執行部体制を整えていくなかで、スターリン型の民主集中制の党組織に戻った。


そこのところをちゃんと説明しないから、党員が「党首公選制」では分派を生むみたいな歪んだ理解になっちゃうんでしょうね。

中北浩爾教授の『日本共産党』は、日本共産党では読んではいけない禁書みたいになっているみたいです。

何しろ膨大な資料に基づいていてもたかが研究書です。

反論するのにちょっと骨が折れるかもしれません。

中北教授は、『希望の共産党』の著者の一人でもあるんですが。

 

次回は座談会の後半の時代です。