【イタリアの共産主義再建党】

ピエトロ・イングラオは、ファシズムの時代を経験し、ナチスの破壊からの「自由」と従属階級からの「解放」を求めて、1940年、共産党に入党した。

「異論の公開」をヨーロッパで初めて提唱した共産党の指導者は自分なのだとイングラオは言っている。
党規約から1989年に「民主集中制」や「分派の禁止」が削除された、1990年にイタリア共産党が「左翼民主党」という政党を作ることが発表された。
しかし、1991年2月のリミニでの全国評議会で、イタリア共産党書記長のオケットは左翼民主党の書記長の選出に必要な票数を得られなかった。その数日後のローマで開かれた全国評議会で選ばれた。
コッスッタとガラヴィーニらの左派グループはその年の12月に共産主義再建党を結成した。イングラオ派も共産主義再建党のなかにはいたが、イングラオ自身は左翼民主党内に残り、分裂を回避できるように活動を続けた。

イタリア共産党から生まれた左翼民主党は、1990年代以降、政権に参加する機会を何度か経験する。
しかし、それは左翼民主党の政策が支持されてそうなったということだけではない。
イタリアには、南部シチリアを拠点とした暴力やテロで社会を支配するマフィア影響力があり、また政権党のキリスト教民主党や社会党を巻き込んだ構造汚職の問題も発覚した。
また、イタリア北部には民族主義を掲げる政治勢力も生まれた。
イタリアは左翼だけでなく、右翼の政党も再編の時代になっていたのだ。

キリスト教民主党の長期政権から生まれた悪弊や構造汚職を変える世論も盛り上がっていた。国会では小選挙区制は政権交代のために導入が進んだ。
この辺りは、細川護熙をリーダーとした日本新党が誕生し、連合政権で政権交代が実現する日本の状況とも似ている。

左翼民主党が生まれた直後の1992年の下院選挙は、比例代表制のみでは最後の選挙になった。



結果は、キリスト教民主党が初めて3割に達せず、与党は過半数割れとなった。
左翼民主党は16.1%、共産主義再建党は5.6%で、両党を会わせても前回の1987年の総選挙のイタリア共産党の得票率26.6%にとても及ばなかった。
このとき伸びたのはロンバルティア同盟(北部同盟)だった。
構造汚職など既成政党への不満を吸収した。

イタリア共産党はドイツ社民党やスウェーデン社民党を最も自分たちと近い党と自覚していたので、すでに社会民主主義の政党であった。だが、政党名を変えて、実質的に脱皮し、内外に与えた衝撃は大きかった。
共産主義再建党のなかでは左翼民主党をどう見るかで党内対立がおさまらなかった。3割を占める左派は「社民主義」と否定的に呼んで共闘に消極的だった。左翼民主党はネオ・リベラリズムであり選挙共闘は認められないことだった。一方、議員団はそのような無用な対立を社会的急進主義で非生産的な路線とみなした。執行部は、緑の連盟など進歩勢力と協力することを決めた。
しかし、選挙後の1993年4月、左翼民主党にとどまっていたピエトロ・イングラオは先が見えない対立のなかで「闇だ」と言い残して離党した。
共産主義再建党も民主集中制の組織原則を捨てていた。その後さらに「統一共産主義者」が分裂する。さらに後には右派がイタリア共産主義者党をつくる。


10年後にイングラオはその頃のことを振り返ってこう言っている。

好むと好まざるとにかかわらず、あのソビエト権力が破滅的に崩壊し尽くした時には、世界共産主義運動のさまざまな部分が悲劇的な傷を負うこと、そして、どのような結論を引き出しどの方向に進む激化をめぐって対立が起こることは「自然な」ことだったのです。ですから、強大なイタリア共産党といえども、内部で将来についての深刻な対立が起こり、ついには死に至ったとしても驚くべきことではないのです。


社会主義とは何か? 自由と解放とは何を意味するのか? 

イングラオがイタリア共産党で進めた党内民主主義は分派活動を認めるようになった。

その後は、おそらくイングラオの想像を超えた展開になったのだろう。


共産主義の原理が同じかどうかが問われると、自分こそは反資本主義、反グローバル主義だと「主義」を争うことになる。

それはイングラオが求めていたものとは違う分裂の結果となった。

もともと自分たちを民主集中制でつなぎとめていたものは何だったのか?

イタリア共産党が消滅する時代に、イタリアはまた違う局面を迎えていた。
闇の世界を支配していたベルルスコーニが「がんばれ、イタリア!」という愛国的な政党でポピュリズム手法によるブームをつくる。
その一方で中道左派をまとめる「オリーブの木」が次第に勢力を伸ばしていた。

「がんばれ、イタリア!」と「オリーブの木」が争う時代になる。

 

 

【参考】星乃治彦『欧州左翼の現在』日本図書刊行会