Bitter Day Sweet Day

下北沢聖書教会牧師。ホームページはこちら

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「2年間タバコを吸い続けると、あなたの肺にはこれだけのタールがたまります」

赤信号で立ち止まった横断歩道に、1mほどの長方形がペンキで書かれている。

シンガポールの道路の話だ。

喫煙2年間で、道路1mの長方形の部分ができるほどのタールが、

肺に蓄積すると言うことらしい。

現実的な視覚教材だ。

法律や規則に厳しいシンガポールらしい光景だ。


朝、教会堂前の道路を掃除する。

その時拾い集めるタバコの吸殻の数はいつも10本を越す。

教会前のわずか20mほどの距離に、これだけの数の吸殻が捨てられている。

何を食べ、何を楽しむのかは、全く自由だ。

だがここに現代の希薄な公共心・公徳心を感じる。


法律で規制し罰を与えなければ行わないという社会も考えものだが、

自由だからと言って、人の事を考えないのも、また成熟した社会とは思えない。

神を恐れることを知らない生活からは、人間本来の行動規範が失われる。

だから人としての生き方から外れてくる。

それが聖書が教える「的外れ(ハマルティア)」、私たちの罪だ。


聖書は教える。「主を恐れる事は知識の初めである」(箴言1:7)
「初め」とは優先順番のことではない。
「何よりも大切なこととして」という意味だ。
人として納得できる人生を歩むためには、何をするにしても、
主を恐れることを除いてはありえない。
主を恐れる人は、限りない祝福を受ける。




A市は「市」ではあるが、地方にあるずいぶんひなびた町だ。

やっと見つけたファミリーレストランに空腹をかかえて入った。

メニューを手に応対する若い女性。

外見からひと目で東南アジア系だとわかる。

だが彼女の丁寧で上品な態度には驚きを覚える。

注文をしながら「どちらから」と尋ねると、爽

やかな笑顔で「インドネシアから」と答えた。

こんな田舎町にまで、時給800円で働くアジア人がいる。


別のテーブルには二人の中年女性の客。

二人は食事をしながら、しきりと夫への不満と悪口を並べている。

その声は、興奮する心に従って次第に大きくなる。

夫をけなす二人の言葉はいやでも耳に入ってくる。

厚化粧で整えた顔がゆがんで見える。

インドネシアの彼女とはあまりに対照的だ。

楽しいはずの昼食が、二人の悪口で台無しになってしまった。


ルソーの「高貴な未開人」という言葉を思い出す。

科学技術が発達し、豊かになっても、人の心は純粋さを失い、

汚れて、高貴な人間性を失ってしまう。

そんな社会を批判する言葉だ。

未開人ではないけれど、

時給800円を求めて貧しいインドネシアからやって来た彼女。

だが彼女を「高貴」と呼ぶことには抵抗はない。

現代日本人が失ってしまった「人としての気高さ、高貴さ」を彼女に見ることができる。

「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする」(イザヤ32:8)。


物質文化を甘受し、経済を優先する生き方が、

いつの間にか人としての高貴さを失わせ、
不満と悪口にあけ暮れる日々にしていた。
世俗の価値観に流されないで、
高貴な神につくられた者としての、
高貴な本来の生き方に立つことが大切だ。


主イエスは、そのために十字架にかかられ、
新しい命によみがえられた。

たった一度の罪が人に涙をもたらす。

男も女も、若者も年配者も、夫も妻も、親も子も、涙を流す。

たった一度犯した罪によって、

慙愧(ざんき)と後悔、情けなさと怒りの涙に震える。

たった一度なのに、振り切ることのできない罪の縄目となり、人の将来をだいなしにする。

たった一度の罪の代価を、人は一生涯かかって支払うことになる。

罪とはかくも残酷なものだ。


だから罪をあなどり、快楽に酔って、罪をもてあそんではならない。

確かに罪はいつでも芳しい香りを放って人を誘う。

現代社会の常識を見ると、罪を罪と認められなくなる。

むしろ、自分が心の偏狭な時代遅れの堅物のように思えてくる。

罪の誘惑はかくも巧みだ。

だが決して罪に機会を与えてはならない。


それは人の目には隠しおおせても、

神の聖い正義の目から罪を覆い隠すことはできないからだ。

罪は必ず明らかにされ、神の裁きのときが来る。

どんなに後悔して涙を流しても、神の裁きからは逃れられない。

だから人は永遠に暗闇と不幸の中を歩くことになる。

それが罪の代償だ。

そこでどんなに悔恨の涙を流しても、何の効果も無い。


だが人の流す涙ではなく、キリストの流した血が人の罪をおおう。
ただ一度流された十字架の血が、人のすべての罪を清算する。
だから涙を流して十字架を見上げる人は幸いだ。
そこに赦しと将来があるからだ。


「イエス・キリストのからだが、
ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なる者とされているのです」
                                         (ヘブル 10:10)
                  

ほこりっぽいアスファルトの道路に、両手をついて転んだ。

コンクリート・ブロック塀から中途半端に出た細い鉄筋に、

足を引っ掛けたのが原因だった。

ズボンの膝は擦れ、鉄筋が当たった靴の甲は、

表皮がめくれて大きな傷が残った。

手足の傷に加え、つまずきの代償は大きかった。

つまずく原因は、たいてい小さなものだ。

実際、人は大きな物には、つまずきようがない。


熱烈で、激しい信仰を持つ人がいる。

語ること、行うこと、万事において強烈で極端なのだ。

しかし彼らは人をつまずかせることがない。

彼らは人の反発を買うだけだ。

人がつまずくのは熱烈な信仰者を見た時ではなく、

中途半端な信仰者を見た時だ。


反発とつまずきは区別されなければならない。

反発は、なお人を神に向かわせるが、

つまずきは人を神から引き離す。

つまずきの代償は、やはり大きいものだ。


信仰のつまずき。

「中途半端」がつまずきの原因だ。

ならば人をつまずきから守る事は、そんなに困難な事ではない。

キリストにつながることの楽しさと嬉しさをほんとうに味わうことも、難しくはない。

神の国とこの世と、二股かける中途半端な生き方をしなければいい。

神を信じると言うなら、ほんとうに信じればいい。ただそれだけのことだ。

熱くもなく冷たくもない中途半端を、神は嫌う。
聖書は教える。
あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。 (2コリント9:2)

オリンピック、ワールドカップ、○○世界大会などと、

世界を舞台にしたスポーツの話題は尽きない。

「がんばります!」と国の威信をかけて誓う選手たち。

その言葉には、鬱々(うつうつ)とした世の中にあって、さらに重い緊張が漂う。



しかし教会は「がんばります」とは言わない。

それは教会が妥協と怠惰の集団だからではない。

教会の土台であり、また生きる基準である聖書をどんなに詳しく調べても、

そこに「がんばる」という言葉を見つけることができないからだ。

それほどにクリスチャンと「がんばる」ことは関係がない。



確かに聖書は「がんばりなさい」とは教えない。

聖書は「委ねなさい」と教える。

しかし現実の生活で、がんばることが美徳であるように教えるこの世の価値観が、

いつの間にか「神に委ねる心」を蝕みはじめる。

十字架で解放されているはずなのに、爽やかさを失い、

追い立てられる感じの毎日になる。

だがそこでも人が歯を食いしばってでも努めるべきことは、神に委ねることだ。

神に委ねることに努力するのがクリスチャンの生き方だ。



あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)。



自分を信じてがんばることは、自分を神とすることに通じ、

神に委ねることは神を神とすることになる。

がんばることは、人の心を人の力に向けるが、信仰には導かない。



だが、
委ねるならば、人の力ではなく神の力に憩わせる。
神に委ね、神に期待する者は、神の力によって向上してやまない人生を歩む。
そこに自分の本来成すべき事が見えてくる。

いつ行っても病院は混んでいる。

順番を2時間待って診療は10分というのが普通だ、と極端な声も耳にする。

それほどだから、診療開始の一時間前に行っても、

待合室で空席を見つけるのは難しいこともある。

現代は病む人がほんとうに多い。



英語で「病気」を「disease(ディジーズ)」という。

これは「dis (~がない)」と「easy (楽)」が合成された言葉だそうだ。

そうすると、病気とは「生きることが楽でない」と言うことか。

だから病気は肉体的な事柄に限らない。

むしろ「気の病」と言うように、病気には「心」がかかわっている。



「生きることが楽ではない」とは

「願わないことを、無理やりさせられる」時の感情だ。

無理が要求されると、誰でも心はねじれ、苦しくなってくる。

それが病気(disease)だ。



だから無理な要求がなく、

自分らしく生きることが認められるときに癒しは起こる。

そのためには自分自身を見つめなおすことだ。

自分をよく知ることが大切だ。

周囲の好奇な視線にとらわれず、人が何と言おうと、

神が与えてくださった自分の人生の生き方を、しっかり定めることだ。

そのように自分自身に素直になるとき、人は心のねじれから解放される。



聖書は教える。「鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ10:16)。



「弱さを認めてほしい」と人に要求する前に、
自分の足りなさを認め、自分の弱さを受け入れる。
そういうすなおさが必要だ。
それは決して恥じることではない。
むしろ神の力を帯びて輝くことだ。
そして弱さ足りなさの中で、神のいやしの力を味わうときだ。

「朱に交われば赤くなる。」

書言字考節用集(槙島昭武 著)に出てくる言葉だ。

古今東西を問わず、友人の大切さが語られている。

どんな友人を持つかによって、人の歩みは大きくかわってくるからだ。

日常の四方山話だけではない。

人生の重大な岐路に立って、肉親よりも、また恩師よりも、

人は友人を頼りやすいものだ。


しかし聖書は、

単なる道徳・倫理的な意味で、友人の大切さを教えるに留まらない。

それは信仰との深いかかわりを教えるものだ。

「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」(第1コリント15:33)


悪い友人によって、神の前の正しい道から逸れ、

罪を繰り返す生活に陥ることがある。だから

「致死の毒に対するのと同じように、悪い話に気をつけなさい」と

宗教改革者カルバンは教えた。

知らず知らずの内に悪い話は心に根付き、

人を神から引き離し、人をたやすく腐らせていく。


友人との親しい関係が壊れること、

また友人を失って自分が孤立するのではないかと恐れると、

「聖を聖」、「義を義」とすることが難しい。

それは神との関係を壊すことにつながる。


しかしいま、最高の友、キリストがいる。」

人を高め、豊かにする友だ。

この友ならば何でも話すことができる。 だから、

もし肉親にも、恩師にも話せないことがあるならば、

この最高の友に包み隠さず話すことだ。


キリストは、私たちが話すのをじっと待っている。
解決と安らぎはキリストとの会話にあり、
真の喜びは、真の友、イエス・キリストから来る。

教会に来て、まず勧められるのが「デボィーション」だ。

今まで耳にしたことのない言葉で、多くの人は何の事かと戸惑うものだ。

「毎日聖書を読んで、お祈りをすること」だと説明され、はじめて納得する。

外国語を嫌い、これを「静思の時」と言う人もある。

いずれにしても「聖書と祈り」は信仰生活の基本だ。

聞いてみれば「なあんだ」と思うような簡単なことだ。

だがこれを継続することは容易ではない、と多くの人は体験的に知っている。


そもそも「ディボーション」とは「専心」「献身」と言うような意味だ。

そこから「祈り」「礼拝」という意味に展開した。

すると聖書を読み、祈ることは、神への「専心」、神への「献身」を意味することになる。

専心や献身の思いに欠けるディボーションは、ディボーションとは呼びにくい。
聖書を開き、そこに慰めの言葉を見つけようとすることは、
ディボーションにはならない。

あれやこれやの願い事を祈るのも、主イエスが私の祈りに答え、

何をしてくれるのか、と期待することがディボーションでの関心事ではないからだ。


むしろ、この日も主イエスに従って、自分自身をささげようと心に決めるのが、

ディボーションで行うことだ。

また、この日も自分を主にささげることができたと感謝し、

あるいはできなかったと悔い改め、なお信仰に立つことがディボーションだ。

これがディボーションは信仰生活の基本である、と言われる理由だ。


「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)
と主イエスは私たちに語りかける。

ここに「信仰によって神を利用しようとする者」が、

「信仰によって神に用いられる者」に変わる鍵がある。

やるべき事が山積みされているのに、少しも思うように進まない。

周囲から思わぬ誤解や中傷を受け、

いつ果てるともわからない苦悩と焦燥の迷路に陥ってしまった。

自分の不甲斐なさに落胆し、もうどうでもいい…と気がくじかれる。

現代人の毎日だ。


しかし主イエスを信じる者は、けっして倒れない。

その苦悩の意味を知っているからだ。

鉄は打たれ、折り曲げられて、その強さが測られる。

人の強さも同じだ。

雨風がなければ、紙の家でも立っている。

何事もない中で、立派なふりをするのは容易なことだ。

しかし苦悩の中でこそ、真の強さがためされる。


涙のゲッセマネ。

悲しみのドロローサ。

激痛のカルバリーの向こうに、復活の主は立っている。

だから、この主イエスを信じる者はけっして気落ちしない。

その悩みの日は、主イエスが通られた道だからだ。

その苦悩の向こうに、栄光の、復活の主がいることを知っているからだ。


「あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」
                                 (1コリント10:13)

「健康」は現代人にとって、最大の関心事の一つだ。

テレビにも雑誌にも、健康についての情報があふれている。

健康によいと言われる高価な食品が、飛ぶように売れている。

しかしその反面、「健康です」と言うのではなく、

「病気ではない」という人が増えているとも聞く。

それは、

病気ではないが健康であるとも言えない、という状態なのだろう。

だから「健康」とは何かが問題なのだ。
  
WHO(世界保健機構)は健康について定義した。

健康とは「病気ではないとか弱っていないということではなく、

肉体的に、精神的に、社会的に満たされた状態」としていた。

しかし社会の状況を見ながら、1998年、その定義を、

「肉体的、社会的、霊的に満たされた状態」に変更することを提案した。

どこが違うのか。

「精神的(mental)」に満たされることを

「霊的(spiritual)」に満たされることへの提案だ。
   
肉体的な健康についてはわかる。

社会的な健康とは、戦争や差別があったり、

生活の制度が整っていなければ、健康な生活はないということだ。

だが「精神的健康」と「霊的健康」とはどう違うのか。

ここがわからないため、

「病気ではない」とは言えるが、「健康だ」とは言えない、

という状態に陥るのだ。


日常の生活での「心の働き」を「精神的」健康だとするなら、

「霊的」健康は、もっと心の奥底にある心の働きだ。

それは何かをしたくなる、というような「意欲」として現れる。

生きる意欲だ。これに欠けては、

確かに「健康です」と自信を持って言えないだろう。

それを与えるものこそ「信仰」だ。


私が呼んだその日に、あなた(神)は私に答え、
私の魂に力を与えて強くされました。(詩138:3)


神との交わりの中に、生きる力が生まれてくる。
体と魂の健康はそこにある。