愛は痛い。 -2ページ目

愛は痛い。

ブログの説明を入力します。


増える一方笑







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書かなくなって心配してくれる一部の味方のために俺の事を少し書きます。


数年前、ある画家に出会いました。
実にダイナミックな筆使いと個性的な色彩表現を持ち合わせた画家で俺は魅了されました。

それまで上手く描けていなかった俺のキャンバスを、画家はあっという間に鮮やかにしてくれました。

画家は片付けが苦手だった様なので、俺は自分の仕事もそこそこにフォローを続けました。

楽ではなかったけど、それでもいいかなと思えました。

画家が悩む時には俺も進んで提案しました。
互いに協力して素晴らしい絵画の完成を夢見る毎日。

時には失敗もあるが、他と見比べれば順調とは言えない事もあるが、協力して一つの目標に向かえる事が嬉しかった。


しかし次第に意見の相違が現れる様になった。

画家は自らの失敗を悪かったと言いつつも、二言目には、でもお前の伝え方が悪い、お前のキャンバスが小さいからだ、と事あるごとに俺を非難するようになった。

俺の意見を無視し続けた画家は、自分の好きな鮮やかな原色を塗り続けた。

その結果、気付けばキャンバスは取り返しのつかない程に真っ黒になり絵画とはお世辞にも呼べない始末。

今思えば画家はきっと俺のためではなく、絵画の完成のためではなく、ただ奔放に塗りたぐりたかっただけなのだろう。


昨年俺が入院したのも書かなくなったのも真っ黒になったからです。

黒にいくら他の色を重ねても、乾かない程のベトベトのキャンバスは結局黒いまま。

画家とは縁が切れ、キャンバスを真っ白に張り替えようと努力はしているが、どうしてもベトベトの黒は滲み出てくる。

あれから数ヶ月が経っても未だこの黒に悩まされる毎日。


だが悪い事ばかりではない。

画家の片付け等負担が減った分、自分の仕事に集中出来る。
その甲斐あって間もなく昇進するので見方によれば順調とも言える。


俺は以前と変わらず前向きです。

どんな手を使ってでもキャンバスを再生し、いつか夢みたいな絵画を完成させます。


たとえ理解してくれる味方が一部だとしても、多数が理解してくれなくても、
それは正しいか否かの判断基準にはならない。

相対性理論が出来た時アインシュタインは、これを今理解出来るのは世界で四人だけだろうと言った。
今となっては物理の定説となり、信頼出来る正しい理論として認知されている。ただ当時理解出来なかった多数が愚かだったというだけの事。

だからこの件で俺を非難する画家の味方もいるだろうが、俺は悪くは思ってません。
ただ認識の問題。愚かというより、本当の答えを理解出来ないのが憐れです。



またこうも思います。

画家は悪くない。
ただ画家の師の教え方が悪い。
そして一部のみに魅了されて依頼した俺が悪い、と。


心配してくれてるアナタとアナタ笑
俺の心配はいりません。
逆境に弱くはないし柔軟なので。

どうせ心配するなら画家をどうぞ。



また書ける時書きますね。












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人は生まれた瞬間から
限りある人生が始まる。

必ずくる死という、一番長く付き合うネガティブな事実がある。

その代わりに人間の脳にはそのネガティブな事実を緩和する機能が存在する。

神や霊的な宗教体験を幻覚として現すという事実が研究により証明されている。

死が終わりではない、まだ続きがあるのだと。

日常のストレスから起こる幻覚もそれに等しい。



仮に人が一切の痛みを感じない生物ならどうだろう?

それはつまり恐れ悲しみ不安等、一切のネガティブな発想が無くなる事に等しい。

世界は全く異質なものとなる。

他人を愛する事も、生命の誕生の喜びも、
信仰や神も誰も必要としないだろう。


死を恐れない事は神を必要としない事、
ネガティブが無い事はポジティブが無い事。


信仰や神を疎ましく思う俺は
生物より死物に近いのかもな。


人は希望があるからこそ生きていられる。

もしくは俺の様に、生きる必要性を見出だすから生きていられる。

そして生命は循環する。



果たしていったい誰が

如何なる目的でそうまでして我々を生かし続けるのか?



俺は全ての物質、生命は等価と考える。

例えば足元に蟻がいるとする。

蟻を踏み殺すも、そのまま生かすもどちらでも判断出来る。
つまり蟻の運命は俺の中で必然的に決定される。

しかし、蟻からすればどうたろう。
恐らく意図しないにも関わらず、俺の足元に来てしまったが為に生死の岐路に立たされる。
つまり蟻の運命は蟻自身の中で偶然の事象となる。


同様に我々の人生は偶然の連続に思えるが、
恐らく正解ではないのだろう。

人間だけがこの等価的運命に当てはまらないという考え方はあまりに都合がいい。


宗教的神は存在しないが
物理的神、想像主は必ず存在する。

それは宇宙か、素粒子か、
はたまた全く別の生命体か。

あるいは人の概念を超越した人間。
つまりは未来の人間。

我々の子孫が我々の神になりうる可能性もあるわけだ。



この記事で俺が一番言いたかった事、


それはね、


アメーバのアプリがややこしくて
実に一月以上ほったらかしてしまったぞこの野郎って事。

そんだけです。





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