弱き等価的人類。 | 愛は痛い。

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人は生まれた瞬間から
限りある人生が始まる。

必ずくる死という、一番長く付き合うネガティブな事実がある。

その代わりに人間の脳にはそのネガティブな事実を緩和する機能が存在する。

神や霊的な宗教体験を幻覚として現すという事実が研究により証明されている。

死が終わりではない、まだ続きがあるのだと。

日常のストレスから起こる幻覚もそれに等しい。



仮に人が一切の痛みを感じない生物ならどうだろう?

それはつまり恐れ悲しみ不安等、一切のネガティブな発想が無くなる事に等しい。

世界は全く異質なものとなる。

他人を愛する事も、生命の誕生の喜びも、
信仰や神も誰も必要としないだろう。


死を恐れない事は神を必要としない事、
ネガティブが無い事はポジティブが無い事。


信仰や神を疎ましく思う俺は
生物より死物に近いのかもな。


人は希望があるからこそ生きていられる。

もしくは俺の様に、生きる必要性を見出だすから生きていられる。

そして生命は循環する。



果たしていったい誰が

如何なる目的でそうまでして我々を生かし続けるのか?



俺は全ての物質、生命は等価と考える。

例えば足元に蟻がいるとする。

蟻を踏み殺すも、そのまま生かすもどちらでも判断出来る。
つまり蟻の運命は俺の中で必然的に決定される。

しかし、蟻からすればどうたろう。
恐らく意図しないにも関わらず、俺の足元に来てしまったが為に生死の岐路に立たされる。
つまり蟻の運命は蟻自身の中で偶然の事象となる。


同様に我々の人生は偶然の連続に思えるが、
恐らく正解ではないのだろう。

人間だけがこの等価的運命に当てはまらないという考え方はあまりに都合がいい。


宗教的神は存在しないが
物理的神、想像主は必ず存在する。

それは宇宙か、素粒子か、
はたまた全く別の生命体か。

あるいは人の概念を超越した人間。
つまりは未来の人間。

我々の子孫が我々の神になりうる可能性もあるわけだ。



この記事で俺が一番言いたかった事、


それはね、


アメーバのアプリがややこしくて
実に一月以上ほったらかしてしまったぞこの野郎って事。

そんだけです。





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