話すことがなくなると、カウンセリングに通うのが憂鬱になってきた。
毎日、家と会社の往復が基本、人間関係は狭く浅い付き合い。
仕事でどうしようもなく腹立たしいことや落ち込むことはあるけど、
カウンセリングの度に1時間話せるほどの頻度で
起こるわけではないし、起きても困る。
カウンセリング前には、今日は何を話そう…と悩み、
特にないので、感情が少しでも揺れ動いた、本当に些細な出来事を話す。
一通り話を聞いた後、
「ずっと、しんどい想いをされていたんですね。」
先生はいつもそんな風に言う。しみじみと。
時には話すことがなくなって、沈黙することもある。
先生は「傾聴」の姿勢を崩さない。
つまり私が何か話し出すまで、ずっと黙ったままだ。
沈黙が気まずくて、次の話題を考える。
何も思い浮かばない…苦しい…先生何か喋ってくれないかな…。
時々「この10分の沈黙で1000円…。」なんてことも考える。
ようやく絞り出した会話も、やはり下らないことしか話せない。
こんな感じで“話してスッキリ”することはなく、
「こんな下らないことを気にするなんて、
先生には何て小さい人間だと思われてるだろうな。」と、
心の中で溜息を吐くだけ。
そのことを先生に伝えたこともある。
「下らないなんてことないです。この時間はあなたの時間なんです。
好きなことを好きなだけ喋ってくれたらいいんですよ。」
先生はいつもそう応える。
そう、対価を払っているのだから、
私の時間と言ってもいいのかもしれない。
何を話しても許されるのだろう。表面的には。
身近な人達と、他愛ない話を出来ればいいと思う。
些細な出来事、ちょっとした愚痴…
そんな会話が出来れば楽しいだろう。
でも、先生に些細な出来事やちょっとした愚痴を話したところで、
楽しくもないし、心が軽くなることもない。
私の話を聞いてくれるのは、仕事だから、お金をもらっているから。
私の話だから聞いてくれるわけではない。
自分のことについては色んな話をしたけれど、
私は先生のことを何も知らない。
そんな対等な関係でない人に、
一方的に自分の話だけをすることにどんな効果があるのだろうか?
…だけどそんな私の考えは、
カウンセリングそのものを否定しているようなもの。
だったら最初から来るなよ、と思われるだろう。
知らない人であるカウンセラーにお金を払って話を聞いてもらう。
カウンセリングとはそういうものだとわかっていたはずなのに。