正岡子規の生き方 | 徳島卸問屋 山善 哲代(てるよ)女将のぽっかぽかブログ

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着物の先生、てるよ女将山口哲代です。着付け講師、着物再生、着物の整理収納が得意な 呉服卸(株)山善の二代目女将です。
女将の日常や大好きな茶道や読書、日々の出来事を綴っていきます

松山二日目。

朝食を同窓生で一緒に。

昨夜の美味しい会食でおなか一杯。

翌朝、せっかくのバイキングなのに、たくさんは食べられませんでしたが、楽しく おいしくいただきました。

私は、パンを選んだんですが、後で同じ徳島の友達と話をすると

シラスどんぶりが美味しかったんだって!

あ~ん、残念だ~笑い泣き

 

皆様、お元気で。

また一生懸命過ごして来年お会いしましょう。

 

その後、昨年の2月にお会いしてFacebookでお友達になった智子さんと再会ラブラブ

Facebookでいつもコメントをくれる貴重なかわいいお方。

ワクワクドキドキです。

今回が2度目なんですが、ずーっとお話ししてたので、

なんだか、2度目な気がしなかったなぁ。

 

智子さんのお車で「子規記念博物館」へ。

明治当時の資料がたくさんそのまま残っていました。

子規は帝国大学に入学できるという頭の良さ。

(夏目漱石との交流もこの頃です。)

ペンで書かれた英語の筆記体はとても美しくて驚きました。

ところが22歳で喀血し、早く社会に出て文章を書く仕事で成功したいと思い、大学を退学して、陸羯南に頼んで日本新聞社に入社しました。

「小日本」という新聞の編集長をして、小説を掲載したり、俳句を募集したりしていました。

今回は、同じころに、日清戦争に子規が取材に行った時のかばんも展示されていました。布の鞄には「山雨海風」と書かれていましたよ。

軍医の森鴎外とこの頃、出会ったそうです。

「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」は、取材帰国後の作品です。

 

子規の子筆で書かれた俳句、手紙もたくさん残っています。

子規が脊椎カリエスだったことは有名ですが、27歳で上根岸に住んだ家が子規庵と呼ばれています。

再現されていて、ここは写真OKでした。

最初、庭を隔てていたのは、障子だったのですが、

寝たきりの子規が美しい庭を見られるように、

高浜虚子たちが、ガラス戸に変えたそうです。

優しいですね。

糸瓜(へちま)がぶら下がったり、四季折々の花が植えられた美しい庭でした。

 

病床で書かれた絵も(絵は知らなかった)たくさんありました。

自然の草花はじめ、とても美しい絵でした。

特に自画像は強く印象に残りました。

 

また、絶筆三句は、亡くなる数時間前に書かれています。

いずれにも糸瓜(へちま)が出てきます。

小筆で書かれた三句は、デジタルアートとなっていました。

 

 

ご一緒した智子さんも「子規記念博物館」は、初めてだったそうです。

よかった~。何度もこられていたら申し訳ないですもんね。

35年間の子規の一生。

貴重な資料を見られて楽しかったです。

智子さん、ありがとう~

 

正岡子規は短命でしたが、その間にたくさんの作品を残しています。

つらい病気を母や妹の律さん、友人に支えられて、

俳句、随筆、短歌、絵と、病床でも書き続けました。

その、作品が今でも残っているってすごいですね。

やっぱり、愛媛は文化県だなぁ~。

 

デジタル時代の今、私のような普通の人でも、だれでもが、文が書け、

写真や、絵を発信できる時代。

感謝ですね。頑張ろうっと。