昨日、尊い命が失われた。


前の仕事先から異動して、あたらしい職場についておよそ一週間。


縁があって、また新たな出会いを経験し、これからどんなことが起こっていくのか。


期待と不安が入り乱れていた一週間だった。


でも、昨日、その子の親父さんが亡くなった。


バイク事故、とのこと。


インターネットのニュースをみると、朝方の事故だったとのこと。


新聞配りをなさっていて、その途中で、原因はわからないが事故で亡くなった。


すぐさま、その子の顔が浮かんだ。


ショックだったろうな・・・そんな言葉では到底表すことができないくらい、悲しみと絶望が伝わってきた。


その子の親父さんは47歳。


事故さえなければ、まだまだ先の長い人生だったろう。


たくさんの感動や幸せや喜びが待っていただろう・・・。


多くの人々が眠る時間帯から、毎日毎日働いておられた。


お出会いしたことはなかったが、そのように働いておられた親父さんは、きっとすばらしい方だったと思う。


家族の幸せを願い、家族を養うために、必死で働いておられた親父さん。


そんな人に神様はなんて残酷なのだろうか・・・。


命は重い。重すぎる。


明日から、その子にどう接してあげられたらいいのか。


悲しみをどうしてあげたらいいのか。


亡くなった親父さんの分まで、しっかりと生きる。


でもそんなすぐにそう考えられるだろうか。少なくとも私はできない。


一日でも早く、前に向かって歩いていけるよう支えていきたい。


けど、自分には彼女に何ができるのか。


その子が悲しみを乗り越えるために。

ゲーム。以上。


様々な意見があるであろうが、一般的にこういったことを言うと、つまらないやつと思われることが多い。


人の嗜好をあれこれと言ってくる人間がいるが、何様だろうかと思う。


憶測の域をでないが、おおよそ彼らはゲームの持つ素晴らしさを知らないだろう。


私の好きなゲームのタイトルに、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーがある。


どちらもこの30年近くの日本のゲーム界を牽引してきた至高のタイトルである。


共通することはどちらもRPGというジャンルであるということであるが、このRPGというものは特に素晴らしい。


最初は自分の村の近くの雑魚にも苦戦をするにもかかわらず、最終的には世界を揺るがす存在に打ち勝つのである。タイトルによっては神にすら勝利する。


しかし、本質的に重要なことはそのようなことではなく、そのラストにいきつく過程が良いのである。


私は何度も涙した。


仲間を守るために、命を燃やしエクスデスに単身立ち向かうHP0のガラフ


残りわずかな命と知りながらも、最後まで懸命に生き抜いたビビ


幼いわが子のために、剣をおさめ、希望を残したパパス


そして、迷いなく牢屋で人質にされるだけでなく、馬車から一切出ることが許されないトルネコ


彼らの功績に涙を流したプレーヤーも多いだろう。(ただしトルネコをのぞく)


私は彼らから友情を知った。愛を知った。命を知った。まさに道徳を知った。


それでもなお、ゲームを否定しようとするか。


知らぬ価値を否定する無知の恥よ。



たとえばAという人に「あなたのことが大好きだ」と言われ、Bという人に「あなたのことが大嫌いだ」と言われる。


またたとえばCという人に「あなたは必要だ」と言われ、Dという人に「あなたは不必要だ」と言われる。


自分にとってプラスにとれる言葉を言われることがあり、逆にそうでない言葉を言われることがあるのは、この世の中では全く不自然なことではない。


その言われた人間ははたしてどんな人間なのか。必要であり、かつ不必要な人間なのだろうか。


矛盾に思えるこのような疑問は、もちろん真実である。と少なくとも私は思っている。


万人に必要だと思われる人間は、おそらくいない。万人に大好きだと思われる人間もおそらくいない。


あのイケメンの象徴?ともいえるキムタクでさえもブサイクだという人はいる。



そして、逆にいえば、万人に不必要だと思われる人もいないということだ。


人が人にもつ印象というのは、およそ80年近い人生のうちの、そのほとんどがほんの一部の瞬間や時間から勝手に評価されたものである。


一見悪人に思えるような人間も、植物を愛で、動物を愛する人だと知れば、たちまちその評価は変わるだろう。すこしたとえが極端であるが・・・。


優しそうに見える人も陰でどんな行いをしているのか。接する人が変わった瞬間に、さきほどまで親しく話していた友人?の悪口を言いだす。


仲間はずれにされたくない、その思考からくる苦渋の選択なのか。

それとも、建前でその友人?と接していただけなのか。


真相は、その人の脳内メモリーを調べるほかない。


誠実な態度で親身に話を聞く、もしくは脅してでも聞き出す。


方法はいろいろあるだろうが、できれば前者でありたい。


すこし話がそれたが、本当に人というのは知れば知るほど奥深い希有な生き物である。


一つの体にいくつもの自分を潜めているのだから。


そして、そのいくつかある自分の一つが、あるとき他者に触れ、評価となる。


評価を受け、嬉しく思うときもあれば、落胆することもある。人間だから。


あたかもその評価が自分自身のすべてを表すもののように思えてしまう。


落胆も度を過ぎれば自分を見失う刃となる。ときに自ら自身の命を投げ出す人もいるだろう。


でも結局、評価は私のある一面を見た他人の勝手な見かたである。


誤解はあっても、たしかに真実の一部であるが、一部でしかない。


どんな評価を受けても、それとは別の評価を受けることがきっとある。


落胆してばかりいることはだれのためにもならない。


しかし、自分も見失わずにいれば、きっと光明が差す。


そう信じて、私は生きている。


きっとこの後、私をよく思わない人は増えていくとは思うが。その逆もしかりである。