長年、NHKの朝ドラをよく観ています。

これも銀河テレビ小説と同様、家族の視聴習慣でついたもので、独立してからもついつい観てしまうものになりました。

昔は録画機器がなかったので、学生時代は学校の休みの日(祝日とか代休とか)か夏休み、冬休み、春休みに観るものという存在でした。今のようにSNSがあるわけではなかったので、誰かと一緒に盛り上がるものではなく、視聴率は明かされていたと思いますが、それによって見方が変わるというものでもなく、言うならば毎朝起きればやっているから観る的なものでした。当然休日にしか観られないのでなぜこんな展開なのかという疑問は出てくるわけでw 毎日観ている親にあらすじを聞いて納得する感じでした。

大学生の頃になって、録画機器が普及すると、このブログでも取り上げたことがある「はね駒」が初めての全話視聴になりました。そういう意味では記念すべき初全話視聴なので、はね駒は自分の中でもダントツに朝ドラのベスト上位に入っているのですが(内容が面白かったことももちろん)、同じ初の括りで言えば「鳩子の海」も自分の中では上位作品に入っています。私が記憶する限り、初めて朝ドラを観たという意味での初です。

1974年〜75年にかけて放送されたのが「鳩子の海」です。この作品までが一年間の放送でした。当時私は小学校の中学年になったところでした。

 

終戦直前の昭和20年8月、兵士の男・天兵(夏八木勲)が岩徳線の線路の向こう側から歩いてくる女の子(斉藤こず恵)に遭遇し、アメリカの爆撃から救ってやる。女の子は天兵から離れず、名前も聞いても分からず、記憶喪失で孤児だった。終戦後、天兵はしばらく一緒にいたが、山口県・上関に住む知り合いの家に女の子を預けた。女の子は鳩のように突然やってきたからという理由で、鳩子と名前をつけられその家で育つようになった。

 

物語の導入はこんな感じでした。

ここから先の鳩子が記憶が戻らないまま成長し、大人(大人パートは藤田三保子)になり、結婚をして離婚をして…のところは残念ながら観ていません。先に書いたように学校の休みの日、夏休み、冬休みなどは観ていたと思います。

時代背景として鳩子が多感な時期を迎える安保闘争も描いており(多分1960年のこと)、その辺りの描写があったことは覚えています。鳩子が預けられて育った家の同い年に近い女の子・優子(伊藤めぐみ)が、学生運動をする男性(堀内正美)に惹かれていくところとか。このわずか断片的な記憶でも暗くて重かったと認識しているので、真正面からその時代を描いていたのだと思います。

放映当時は戦争や安保などが放った時代の生々しさが人々にはとてもリアルなものとして受け取られていたのではないかと感じられます。戦後28年、安保15年の頃ですもんね。まだまだ記憶はリアルだったことでしょう。

 

私は家族の視聴習慣によりこの作品を観ていたと書きましたが、きっと主人公の子役として出演した斉藤こず恵さん目当てで観たという理由があったと思います。

私と斉藤さんは同世代なので、親近感を持っていました。

当時、斉藤さんはこの作品で超人気子役になったようですが(視聴率50%近い朝ドラなら当然かと)、この後もみんなのうたNHK)での「山口さんちのツトム君」の歌手での人気も凄かったですし、TBSのドラマ「それ行け!カッチン」(1975年〜76年)も好きで観ていました。

演技が上手い斉藤さんは、子供時代の鳩子が終わってもNHKに「もっと出してほしい」と投書が来たらしく、引き継いだ大人役の藤田さんが大変だったというような話を聞いた覚えがあります。

子供時代の鳩子は、天真爛漫で物怖じせず、畑に植えている芋を盗んで天兵と一緒にふかして食べるというシーンもありました。確かにインパクトのある演技で、これらが子供らしいと好評だったのかもしれません。

 

そして斉藤さんはドラマの終盤、再び出演しました。

私がそれを覚えているのは春休みの時期の放送だったからです。

鳩子は白髪まじりだったので年齢もかなりいっていた頃だと思います。

ある訪問者(柳生博)が訪れ、鳩子のことを知っていると言いました。

 

鳩子は実は広島の裕福な家の娘・仮名子だった。疎開のため、トラックに箪笥のようなものを乗せて移動していた。その日は8月6日、広島の原爆投下の日だった。原爆は落とされ、鳩子は箪笥の影にいたので助かったが、トラックから投げ出された拍子に頭を打ったらしく記憶を失った。一緒に乗っていた家族は亡くなった。付き添いの男性(柳生さん)がケロイドを負いながらも助かったため、しばらく二人は行動を共にしていた。しかし鳩子はフラフラと一人で歩いてはぐれてしまい、気づくと線路に出ていた。

 

ここで冒頭の天兵と鳩子が出会うシーンに繋がるのです。

もう50年近く前に観た映像なのに、このシーンは今でもはっきりと思い出せます。

ドラマ初回の線路のシーンが、まさか原爆に遭った女の子がさまよい、抜け出た先のシーンに繋がっていようとは。驚いたと同時に凄く感銘を受けました。

この回をたまたま春休みだったので観ることが出来たわけですが、本当に観ることが出来て良かったと思っています。

そして原爆のことを私が初めて知ったのはこのドラマでした。

あの一瞬で、記憶を失い人生が変わってしまった一人の女の子のことが、同じような年齢の私には強烈で、とてもショックな事実でした。おそらく他人事ではないと思ったのではないかと考えます。それだけの説得力が斉藤さんの姿にはあり、そしてドラマを作ったNHKには誰にでも起こりうることという意図があったのではないでしょうか。

話を聞いて記憶を取り戻した大人の鳩子は、線路で出会った天兵に思いを馳せました。この人に出会わなければ線路でアメリカの爆撃に遭い死んでいたかもしれない、その後も鳩子として生きることは出来なかったかもしれない、と思ったことでしょう。鳩子と天兵の関係を人は運命という言葉で表現するかもしれません。でも、きっと戦争孤児の多くがいろんな人たちと出会い、助けられ、生き延びて来られたのは、とても運命という言葉では片付けられないぐらいの重みや過酷さがあるのだと私は思います。

 

このドラマで描かれた鳩子の理不尽な人生に触れて、私は戦争とか原爆について考えるようになりました。このドラマがきっかけでした。

ちなみにWikipediaで鳩子の海を調べると、このドラマを観た被爆者の老人男性が、被爆後の惨状を絵に描いてNHK広島放送局へ持って来られた、という記述があります。広島局ではこのことをきっかけとして市民に原爆を描いた絵を募集するようになり、原爆体験を後世に伝える活動を続けたとか。原爆の絵運動と呼ばれているそうです。多くの人々の気持ちを動かしたドラマだったと言えるかもしれません。

 

脚本は林秀彦さんでした。朝ドラでよく取り上げられる「おはなはん」の主人公は林さんのお祖母さんがモデルだそうです。

この方のドラマで記憶に残っているのは、「生きるための情熱としての殺人」(テレビ朝日、2001年)。脚本ではなくて林さんの小説が原作です。金曜ナイトドラマ枠での放送で、その枠のドラマはあまり観る機会がなかったのですが、たまたまこの「生きる…」を観て凄くハマってしまいました。過剰な演技や現実離れした感じでドラマが面白いのではなく、面白い「小説」をドラマ化したからこんなに面白くなった、みたいなドラマでした(伝わりますでしょうか^^;)。原作の名前を観て、あ、「鳩子の海」の脚本家だと気づいた時は嬉しかったです。ドラマの作り方も上手かったでしょうが、多分原作も本当に面白かったんじゃないでしょうか。読んでみたいと思っていますけれど。「鳩子の海」が一部しか観られなかった分、こうやって林さんの作品を追いかけるしかないというか…。

音楽は冬木透さん。「帰ってきたウルトラマン」のMATのテーマ曲、ワンダバで有名な方ですね。「鳩子の海」では、天兵と鳩子が劇中で歌う「日本よ日本」という挿入歌を作曲されていました。この挿入歌は短くて、私も少しですが歌えたりします。なので、オープニング曲よりもこっちの方が覚えていますw

 

一年間放送された鳩子の海の根幹の部分は広島の原爆でした。しかし、それ以外にも人間ドラマがあったようです。鳩子が育ててもらった家の未亡人(小林千登勢)の再婚話や、鳩子の職業、結婚生活などなど。これらを休日に観ていたとはいえ、ほとんど覚えていないのはとても残念でなりません。NHKには全話のテープがなく、視聴者から提供されたものと合わせて20話程度しかないようです(これらは番組公開ライブラリーで最寄りのNHKで観られます)。本当に何度も言ってしまいますが、70年代の作品はことごとくないんですよね…。せめて観られる分だけでもオンデマンドで観られる環境にしてもらいたいものです。