一つの小説が、昭和、平成、令和とそれぞれの時代に求められるようにドラマ化されるってとても稀有なことだと思うのですが、白い巨塔はその稀有な例の筆頭の存在かもしれません。

山崎豊子さんの小説は取り上げる内容がいわゆる一つの特殊な業界モノなのかと思いきや(医療や銀行、商社など)、そこにはごく普通の人間の営みが透けてみえ、野心や欲望もあれば権力争いも潜んでいる。人間が関わっている限りどんなことも普遍的なのだと知らしめてくれている気がします。

特に白い巨塔は、昭和の時代よりも遥かに情報機器が発達して、それを扱う人間にも高度な知識が備わり、物事をドライに捉えられて、もっと賢くなっているはずの令和の時代なのに、昭和と変わらない権力闘争が大学にあり、医療ミスも存在する。これはかなり衝撃的な現実のように感じます。

 

私が観ていたのは昭和時代の白い巨塔フジテレビ系列・1978年~1979年)です。

当時小学校高学年で観ており、改めて調べてみると夜9時台放送。Gメン75の裏でした。土曜日の夜でしたので、翌々日の学校での話題はGメン75の立花警部のカッコ良さだったことをうっすら覚えていますが、白い巨塔が小学生の間で話題に上った記憶はありませんw

小学生でも面白いと思えるストーリー展開だったので、財前が成り上がっていくところや、自分の傲慢さに足をすくわれるところも理解して観ていました。理解できたのは恐らく31話という2クールを超える長さで、実に丁寧に淡々と煽るような演出もなく描いていたからではないかと思います。

でも、実際にこのドラマを面白く、かつ描かれる人々の悲哀を実感できたのは社会人になっていた12年後の再放送だったように思います。

 

まずは役者陣について。

物語の前半に描かれた国立大学医学部の第一外科の教授選では、現第一外科東教授チームと次期教授を目指す財前助教授チームが誰を味方にするかでそれぞれが酒の席で生々しく語り合う場が多く、絵面としては派手さもなく淡々と地味なだけなのに、ザ・昭和の役者たちの演技の技であったり、存在につい見惚れてしまい、時間が過ぎるのを忘れるほどでした。

浪速大学という関西の大学が舞台なのですが、要所要所に関西出身の俳優が登場して演じていたお陰で、話す関西弁が一地方の大学の話としての説得力を与えていました。

財前役の田宮二郎さんは京都出身の方であり、時々財前が話す関西弁はとても柔らかく聞こえ、外では虚勢を張って強く見せようとする姿とはまた違った一面が垣間見えるようで、その時の優しい表情が印象に残っています。

他の関西出身の方は、財前の義父を演じた曾我廼家明蝶さん、財前の教授選工作に手を貸す産婦人科の教授を演じた戸浦六宏さん、財前の部下で財前に心酔しきっている医局員を演じた伊東達広さん、後半の胃がん患者の妻を演じた中村玉緒さん、後の医療裁判で証言する第一外科婦長役の松本典子さんなどであり、ネイティブな関西弁が悪役、善人役どちらもその中で魅力あふれる人物に仕立てていました。私自身が関西出身ということもあり、その辺りをどうしてもチェックしてしまう傾向があります^^;

 

気高く、孤高の存在である大河内教授の加藤嘉さん、学者肌で大学の権力闘争に疎い東教授の中村伸郎さん、柔和で正義感の強さが圧倒的だった里見助教授の山本學さん、元女子医専に通っていたホステスで財前の愛人の太地喜和子さんも素晴らしかったですね。多くの俳優さんを全て挙げたいくらいなのですが、とりわけ私のイチオシの役は里見の兄と柳原医師でした。里見の兄は岡田英次さんが演じていました。さすが似た者兄弟と言いますか、この兄も大学内の権力闘争に全く興味がないのです。兄は確か小児科の開業医をやっていて(原作では大学の医局にいたが嫌気がさして辞めたという設定だったはず)、時々弟の家に顔を出すのですが、大河内教授に似た清廉潔白さがあり、かつとても穏やかで、一歩引いて静かに物事を見つめるその雰囲気がとても魅力的でした。わずかなシーンしか出演していないのに、「里見の兄」らしさを見せた岡田さんはとても良かったです。

 

柳原医師は、医療裁判のきっかけになる胃がん患者の担当医。無給の医局員であり、教授の財前は絶対の存在。それなのに手術前に断層撮影を申し出たら却下されて、結局患者が亡くなってしまうけれど、その申し出た断層撮影が裁判の結果を左右することから財前側に懐柔されるという役でした。

この役を演じた高橋長英さんは絶対の存在の前では萎縮し、刃向かえず、断層撮影の可能性はなかったという財前の言葉通りの嘘の証言を続けながらも、良心の呵責に苛まれるという演技が絶品でした。

後の白い巨塔リメイク版(平成や令和)での柳原は性格が弱く、優しさを強調していたように思いますが、この78年版はそうではないと考えます。元から弱いのではなくて、言えない立場が人間を弱くさせてしまっているという感じでしょうか。

高橋さんは萎縮するシーンでは、思わず唾を飲み込む、ドギマギする、冷や汗をかくといった風に演じ、その見せ方が本当に上手い方だなと思いました。

財前側に裕福な薬局の娘の縁談を紹介され、学位の取得も大丈夫と持ちかけられ、一時はそっちの方へ進みかけます。しかし亡くなった患者の家業が倒産し、遺族が大変な日常を送っていることを知り、そして財前が裁判での証言の際に柳原に責任転嫁をする場面に直面したことにより、それは違うと叫んで今の虚構の幸せを手放すことになります。

長いものに巻かれようとする感覚はわかります。そっちの方が楽ですから。

でも、そういう方法で得た幸せは永遠に続くのだろうか、と思ったりします。脆い土台の上に築く大きな箱はグラグラと不安定なままではないかと。

柳原がギリギリの場面で真実を選択した現実はとても重いものではないでしょうか。

 

社会人視点で気づいたシーンがあります。

助教授の時の財前が上司の東にスタンドプレーが過ぎると苦言を呈され、そんな様子じゃ君を教授に推せないよと言われた時です。

 優秀で有能な財前は、東の前でタバコを吸い、教授になってみせますと宣戦布告をするのです。ただ虚勢をはって言ったのではなくて、縦社会の上下関係の中である程度我慢してきた結果、仕えてきた有能な自分を推さないのであれば構いませんよ、と言ったようにみえて、社会人の私はその気持ちも分かるなあ、こんな風に言えたらなあとも思いました。色々経験した実感だと思います^^;

でも、もっと考えるとそれは財前が自他共に認める優秀さがあるから言えたことで、その上、バックには教授になるためには金に糸目を付けない義父と医師会の人脈が付いている。ということは、ほとんどの人には言えないこと…。

そういう見方ができるのも社会人感覚ですねw

 

財前の優秀さを表現しているシーンにも社会人視点で気づいたことがあります。

医療保険を利用している患者にはバリウム撮影の写真が2枚しか取れない、だから目を凝らして見ろ、と医局員に指導するところです。バリウムを患者が飲んでいるところを、医師がモニターで見ながら撮影するシーンがあり、枚数制限がある中で瞬時に見つけられる財前はさすがだと思わせました。仕事ができる人には憧れます。

でも、財前は自分の優秀な部分をどんな人にでも平等に役立てるのではなく、財前が利を得られる一部の層にしか与えようとしなかった。また、教授になったことでより一層傲慢や慢心が芽生え、「こうに決まっている」「そんなはずがない」「大丈夫だろう」という考え方に陥り、医療裁判にまで発展した検査を怠ることへ繋がっていくわけです。権力を手にするということは、本当に難しく厄介で恐ろしいものだと感じます。

 

そして私が身につまされたシーンがこれ。

医療裁判で訴えた原告側の遺族を中村玉緒さんが演じたのですが、夫がまさか転移していたとは知らず、術後どんどん容態が悪くなっていくことに対する不安と狼狽、なぜ執刀した財前が診察に来ないのかという戸惑い、そして亡くなってしまって呆然とする様、突然遺族になってしまった悲哀がとてもわかるシーンでした。病理解剖をしたいと打診され、それにも、はあと答えるしかできない、なすすべがないということはさぞ無念だっただろう、と思いました。そんな何もできず、何もわからなかった妻が真相を求めて立ち上がる。泣き寝入りをしてはいけないという思いがこれほど明確に伝わったのは、中村さんが演じたからだと思うのです。

 

クライマックスは、裁判での今までの証言を翻した柳原医師の証言を裏付ける証拠を出す、元同僚の江川医師(坂東正之助さん)の存在でした。財前が教授の次なる学術会議会員選挙のための票対策として地方の病院へ飛ばされた江川が柳原に力を貸すところが見どころでした。原告の抄読会(カンファレンス?)で財前が話していた内容が裁判で明るみになり、財前が江川の出現に「ブルータスお前もか」となるところは一番溜飲が下がるシーンです。お天道様は見ていると思えるシーンでもありますw

正直、昭和版のドラマでは、やはりクライマックスは柳原医師〜江川医師のリレーであり、財前がその後胃がんの診断を下され、手術も手遅れで、後悔しつつ亡くなるところはそれほど重きにおいていないように思うのです。財前の死は物語のフェードアウトであり、一人の医師の死であり、静かに終わっていく感じなんです。昔のドラマは放送時間の拡大などなかったので、本当に淡々と財前の死が描かれていくのみ。今の視聴者にはあっさりしすぎているように思われるかもしれません。

 

と、まあザ昭和の役者陣のいぶし銀の演技や内容の深さなど書いてきましたが、思い入れのあるオープニングの音楽にも触れなければなりません。

音楽は初見の小学生の時に私の心をグッと掴みました。渡辺岳夫さんの作曲で、静かに悠然と始まり、段々と強く大きくなっていきます。ベースは明るくメジャー調のメロディーで垢抜けた感じなのに、寂しさや哀しさを滲ませた曲調に移り、ポツンと墨滴を落とした波が広がるような余韻を残すといった感じでしょうか。このオープニングの音楽は心に強く残りました。

平成版の加古隆さんのオープニング曲は悲劇的というか、問題提起型というか、その曲調とは対称的な感じです。平成版のドラマを完全視聴していないので感想は言えませんが、財前という人物を前面に出したオープニング曲だとすれば、昭和版は医療そのものを描いたオープニング曲のような印象を持ちます。

当時は、この音楽のレコードがないかと思ったものです。残念ながらサントラもなかったので耳で覚えるしかない時代でした(T_T)

ちなみに渡辺岳夫さんは、フランダースの犬の音楽などを作曲した方で、扱うジャンルの幅広さに脱帽します。

 

改めて白い巨塔を書いてみて、今の年齢でもう一度昭和版を観るとまたどんな感想を持つのだろうかと思います。再見した時代よりも現代は社会システムがより複雑な構造になり、善も悪も一見では見極めることが難しく、そんな時代を生きている目でこのドラマをどのように捉えることができるのか知りたいです。