今朝、牧師である夫がニコニコして「Tさんに、『受洗したいです!』って声をかけられた。」と話していました。
Tさんは仏教の信仰を持っていたようですが、主人と知り合い、「キリスト教のほうが真理なのではないか?」と考えるようになったようです。
宗教は違っても結局、同じところにたどり着くものなのか?
「分け登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」
一休禅師の作った歌と言われ、「宗教の入り口はいろいろ違っても、最終的に到達するところは皆同じである」というような意味です。
しかし、聖書では「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」というイエス・キリストの言葉が書かれてあり、「わたしを通してでなければ、だれひとり 父のみもとに来ることはありません。」(新改訳聖書 新約聖書ヨハネの福音書14章6節)と書かれています。
それで「キリスト教は排他的だ」とよく言われます。
「宗教は違っても、最終的に到達するところは同じなんだから、仲良くやっていきましょう。」という考え方は、とても日本人の「和」と調和し、穏便に事をおさめることができるのです。
しかし、山登りであればそれは真実かもしれませんが、「宗教」として考えるなら、それは真実でしょうか?
聖書が教える「神」は、創造主なる「神」であり、「三位一体」の神をさしますが、日本人が「神」と言う場合、いろんな神様をそれぞれに連想してしまいます。
韓国では聖書が教える神は「ハナニム」と呼び、他の神々との区別があるそうです。
日本でもそのような言葉の区別があれば良いのかな、と思います。
意識している方は、「神」と言わず、「創造主」という言葉を使うようにしているクリスチャンもいらっしゃいます。
真実は一つ
「真実」というのは「代替えがあってはならないもの」「排他的なもの」であることがもともと多いことに気づきます。
たとえば、「1+1=4でも6でもいいじゃんっ!」というわけにはいかないですし、「私の夫は、V6の岡田さんでもいいじゃんっ!」というわけにはいかないのです。(…なんだ、このたとえ・・・^^;)
「真理」「真実」であれば、「他の人(もの)でもいい」ということが許されない、逆に言えば、だからそれが「真理」「真実」と言えるのではないかと思います。
ずっと親しんできた宗教を変え、信仰を変えるというのは、とても大きな決断だと思いますし、大変なことだと思いますが、Tさんは「同じ高嶺の月」とは考えなかったようです。
70代前後と思われるTさんの決断とこれからの歩みのためにお祈りしています。
8月の第3日曜日に、十戒の第一戒「あなたには、私のほかに他の神々があってはならない」というところからメッセージがあったので、またその部分の記事を書きたいと願っています。
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