N.T.ライトの「パウロ」を参考に次のような略年表を作成した。

古代史の研究では当然のことだが、年はおおよそである。

 


?紀元後5-10年 タルソで、サウロ誕生

30年 ナザレのイエスの十字架と復活

33年 ダマスコ途上で、サウロがイエスに出会う

33-36年 パウロ、ダマスコに、アラビアに、再びダマスコに

36年 パウロ、ダマスコでの出来事以降、はじめてエルサレムを訪れる(ガラテヤ1:18-24

36-46年 パウロ、タルソに。バルナバによってアンテオケに連れて来られる

40年 カリグラ帝、エルサレムに自分の像を建てる計画を命じる

41年 カリグラ帝暗殺。クラウデオ帝即位。

46/47年 エルサレムの「大飢饉」支援訪問(使徒11:30; ガラテヤ2:1-10

47-48年 パウロとバルナバの第一次宣教旅行:キプロスと南ガラテヤ

48年 ペテロ、アンテオケに(ガラテヤ2:11-21

48年 「ガラテヤ人への手紙」執筆

48/49年 エルサレム会議(使徒15章)

49年 クラウデオ帝のローマからのユダヤ人追放令。

49年 パウロとシラスの第二次宣教旅行:ギリシア

50/51年 「テサロニケ人への手紙第一、第二」執筆

51-52年 パウロ、コリントに

52/53年 パウロ、エルサレムに、アンテオケに、第三次宣教旅行:エペソ

53-56年 パウロ、エペソに

?53年 「コリン人への手紙第一」執筆

53/54年 コリントへの短く、悲しい訪問

54年 クラウディオ帝死去、ネロ帝即位。

?55-56年 エペソでの投獄

?55 「ピリピ人への手紙」執筆

?55/56年 「ピレモンへの手紙」「コロサイ人への手紙」「エペソ人への手紙」執筆

56年 出獄:エペソからコリントへ

56年 「コリント人への手紙第二」執筆

57年 「ローマ人への手紙」執筆

57年 コリントからエルサレムへ

57-59年 エルサレムとカエサリアでの聴聞(公判)と投獄

59年秋 ローマへの航海:マルタでの難破

60年 ローマに到着

60-62年 ローマでの自宅軟禁

?62-64年 さらなる宣教旅行。スペインへ?東へ?両方?

62年後 「テモテへの手紙第一、第二」「テトスへの手紙」執筆

64年 ローマの大火。キリスト者に対する迫害

?64年(またはその後) パウロの殉教

66-70年 第一次ユダヤ戦争

68年 ネロ帝死去

70年 エルサレム陥落

 

牧会書簡(「テモテへの手紙第一、第二」「テトスへの手紙」)に関しては、ライトは「?」をつけているものの、使徒の働き28章以降のパウロの人生に関して、次のように指摘している。

 

「もし、パウロが64年に殺されたならば、ルカが述べる2年にさらに2年が残される。スペインを訪問するのには十分な時間だったのではなかろうか。十分可能である。」

 

そして、1世紀後半に書かれたクレメンスの手紙からの引用を紹介している。

 

彼が東方においても西方においても、福音の説教者として登場した時、7度鎖に繋がれ、追い払われ、石にて打たれたのだったが、そのため彼はその信仰の栄えある誉れを得たのであった。彼は全世界に義を示し、西の果てにまで達して為政者たちの前で証を立てた。かくしてから世を去り、聖なる場所へと迎え上げられたのだー忍耐と言うことの最大の範例となって。

(小河陽訳、「使徒教父文書」、講談社文芸文庫。)

 

この文章をクレメンスの創作と考える人がいるが、彼はローマの教会の中心的な存在だった。パウロの死後30年の辺りに書いていたことを考えるならば、少なくとも私たちより信頼できる資料も持っていたはずであるとライトは指摘する。

 

ローマの大火の時、たぶん、パウロはローマにいなかった可能性も拭えない。スペインで宣教していたのかもしれない。ローマの大火とキリスト者に対する迫害を聞いて、ローマに戻ってきて捕まえられたのかもしれない。それからテモテへの手紙第二」を書いた可能性は否定できない。(文体の違いもスペインに行ってたから?筆写者の都合の方が分かりやすいが…)

そう考えるならば、牧会書簡を62年から64年の2年の間に執筆していてもおかしくはない。