新改訳第三版から新改訳2017に変更された箇所の一つは、ローマ12:2である。
新改訳第三版:
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
新改訳2017
むしろ、心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ἀλλὰ μεταμορφοῦσθε τῇ ἀνακαινώσει τοῦ νοὸς εἰς τὸ δοκιμάζειν ὑμᾶς τί τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ, τὸ ἀγαθὸν καὶ εὐάρεστον καὶ τέλειον.
新改訳2017は、明らかに受動態として捉えて、自分を変えていただきなさいと訳している。
聖書協会共同訳も、この受動態を前面に出して、「自分を造り変えていただき」と訳している。
それでは、今までの新改訳第三版の「自分を変えなさい」は誤訳だったのだろうか?
そういう話を何度も聞いてきたが、実は、そうとも言えない。
田川訳と註では、こう解説されている。
単語の形だけからすれば、我々の訳のように中動にも(作り変える)、口語訳等のように受動にも(作り変えられる)訳すことができる。・・・しかし、ここは、並んで言われている「自らを作り変え」が中動である死、話の全体の流れも、「あなた方」が取るべき態度についての説教であるから、中動に解するのが普通。
だから、「自分を変えていただきなさい」と訳せるし、「自分を変えなさい」とも訳せる。
どちらの意見も説得力があるが、この点に関してギリシア語は明確ではないのだ。
自分は、神様はあえて両面性の意味を持たせたと考えている。
神様に自分を変えていただく必要があると同時に、ありのままで良しとせずに、自分を変える姿勢も必要ということと思う。
ちなみに「心」という単語はどの訳にも変更がなされていないが、「ヌース」(νοὸς)という単語を「心」と訳すことはどうだろうと思ってしまう。欄外注もない。
田川訳と註にも、
nousは基本的には「認識すること、考えること、ないしその能力」を指す。・・・「心」はよくない。「心」は「心臓」であって、感性や感情の場所である。
とある。
だから、ここで使徒パウロは、
思考を新たにして、自分自身を変えていくこと、
聖書のみことばに思考を刷新させて、自分を変えていただくこと、
の両面性を語ったのだと思う。