新改訳第三版と新改訳2017がどのように変更しているか比較すると面白い。

 

ユダの手紙1節に、興味深い変更がある。

 

「イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」(第三版)

「イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。」(新改訳2017)

καὶ Ἰησοῦ Χριστῷ τετηρημένοις κλητοῖς·

 

もっとも、新改訳2017の欄外に、「別訳『のために』」と加えられている。

 

「キリストのために」と言うと、

 

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」(ピリピ1:29)

ὅτι ὑμῖν ἐχαρίσθη τὸ ὑπὲρ Χριστοῦ, οὐ μόνον τὸ εἰς αὐτὸν πιστεύειν ἀλλὰ καὶ τὸ ὑπὲρ αὐτοῦ πάσχειν,

 

を思い浮かべる。

 

ピリピ書では、「キリストのために」と訳しているのは、前置詞ὑπὲρと属格: ὑπὲρ Χριστοῦ

しかし、ユダの手紙では、前置詞はなく、 Ἰησοῦ Χριστῷ  与格(Dative)だけである。

 

与格に関しては、織田昭著、「新約聖書のギリシア語文法」にこう説明されている。

 

元来、授与動詞の人格的関節目的語を表現することから「与える格」と名付けられたもので、人格関係や人格的利害を表す格である。「に対して」の格、「にとって」の格と言える。

 

では、第三版のように、与格を「のために」と訳すことが不適格かというとそうとも言えない。

織田氏の文法書には、

 

利害・関連の与格「~のために、に関して、とのかかわりにおいて」

 

というのがある。

 

そもそも、ジェレミー・ダフの「エレメンツ」(浅野訳)では、

 

与格は名詞に間接目的語としての機能を与え、「(誰々)/(何々)のために」や「(誰々)/(何々)に対して」等の訳があてはまります。

 

と、説明している。

 

それでは、新改訳2017のように変更しない方が良かったのだろうか?

 

新改訳2017では、「具格」(instrumental)とも呼ばれる「手段」の用法(~によって)として与格を理解したのかと思う。これも興味深い訳である。

 

英語の聖書にもこの混乱は明らかで、NIVもforと訳しているのに、欄外に、or by; or inと注意書きをしている。

 

N.T.ライトは、Kingdom New Testamentで、

 

... to those who are called, the people whom God loves and whom Jesus, the Messiah, keep safe!

 

と訳している。

 

ビル・マウンスが、このギリシア語の与格の扱いの難しさの一つとして、このユダ1:1を挙げているブログがある。

 

https://www.billmounce.com/monday-with-mounce/the-flexible-dative-jude-1

 

マウンスの結論は、こうである。

 

Whatever you do this verse, my suggestion is not to base any doctrine on it. The dative is just too vague to be useful here.

 

与格はあまりにもあいまいだから、この箇所を土台として教理をつくらない方が良い。

 

 

ちなみに、協会共同訳は

イエス・キリストに守られている、召された人たちへ。

岩波訳は、

イエス・キリストのおかげで守られている、召された人々に挨拶を送る。

 

と訳している。