神は、天地を創造し、人を造られました。

創世記1:26以下にこう記されています。

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造 ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、 男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。 地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、 地をはうすべての生き物を支配せよ。」 (1:26-28)


「われわれ」という複数形の表現は、 多神教と言う意味ではありません。

古代語では、壮大さ、威厳を示すために複数形が用いられていました。

ですから、これは数字の複数ではありません。

古代の王が語る時、「わたし」という代わりに「我々」と言いました。これを、「尊厳の複数」と言います。

また、個人が自分の行った決定を表現する時に用いる「熟慮の複数」(let us)というものもあります。

「父、子、聖霊」の三位一体を示していると主張する学者もいます。

「神のかたち」と言う表現も、別に、「神」が、私たちと同じような姿かたちをしているという意味ではありません。

専門用語で「imago dei 」(イマゴ・デイ)と呼び ますが、アウグスティヌスは、「人間の理性的能力」、人間を動物の世界から区別する 「神と関わる能力」のことだと言いました。

この「かたち」という単語は、ギリシア語では「エイコーン」と訳されます。

エイコーン」は、「貨幣に刻印された皇帝の顔」を意味します。

ある時、イエスに悪意をもっている人たちが、こんな質問をしました。

先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、 人の顔色を見られないからです。
 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、 律法にかなっていることでしょうか。かなって い な い こ と で し ょ う か 。」( マ タ イ 22:16,17)

イエスは、「税金に納める硬貨を 見せなさい」と言い、彼らがデナリ銀貨を持って来ると、こう言われました。

これは、だれの肖像(エイコーン) ですか。」(22:20)

つまり、「エイコーン」という意味は、常に「その原型があることを暗示するもの」です。

そういう意味で、人は、

神がおられることを暗示する存在

として造られました。

人は神ではありませんし、神になることもありません。

人は神の力、神の栄光を反映する存在として造られたということです。

それで、人は神が造られた世界を管理する責任を与えられました。

これは、人がこの自然界を抑圧し、欲望のままに搾取する権利を与えられたという意味ではありません。

神の愛と義で、いつくしみをもって管理することを通して、神の栄光を現わすためです。

このことを理解すると、創世記の続きの記述は理解できます。


神である主は、人を取り、 エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である主は、人に命じて仰せられた。

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2:15- 17)


人は、主が創造された世界の豊かさを、楽しむ自由が許されました。

「いのちの木」からも、自由に食べることが出来ました。

しかし、「善悪の知識の木」、すなわち、神の主権を犯すことだけが禁じられたのです。

なぜなら、「神の栄光を反映する存在」という存在意義が、そのことによって失われてしまうからです。

神の主権、神が「正しい」と言われる、神が「悪」と言われる絶対的な価値観が失われる時、人は存在意義を失い、「神のかたち」としての人の存在は、死んでしまうからです。

それが、今のこの世界の現実です。 神の絶対的な善悪を失った人類は、それぞれが、それぞれの善悪でぶつかり合うことによって、この世界を破壊し、この世界を死の世界としてしまいました。

今も、世界が平和ではない一番大きな理由は、それぞれがそれぞれの善悪で対立しているからです。

そういう意味で、

「自分自身がしたいことをして何が悪いか」

と言う価値観は、アダムとエバを欺いた蛇の嘘かもしれません。