伊勢講に当った権八がさ、そうそう、そこの土手っぺりの。がらっぱちだよ?とびっきりだよ、三男の権八は。
「な~にが伊勢だよ全く、洒落くせえ。おてんとさんと辻のほこらに精々が筋ってもんだろう」なんつってね。
権八にゃ学ぁねえが、数寄風流解さぬとんちきでもねえ。口から先にの権の字だ、ああだこうだ口から出るが、行くは行くわけさ、草鞋裁着も新調してね。
道中、畔の草がいけねえ、土手の花がいけねえ言いつつ寄ったでっけえ寺のお堂でさ、コリャナンデエ?となるわけだ。村にゃそんなどでけえ寺なんてねえからさ。
コレハナンデスカ?
ふと疑問に思う事ってありますね。「ふと」の「ふ」ってなんなのさ?とか。
その時は気になるんだよ、ほんとに。とはいえ即座に電脳の沃野に飛び出すほどでもない、それくらいの事。
商業施設を歩いていて、ん?お金落ちてる?とどきっ(何故)とさせる床の丸い銀色のシールとかね。
スーパーから帰宅。買い物袋からどすんどすんと鼻歌混じりに戦利品を取り出す。Parsley,sage,rosemary and time取り出したケチャップを見て、ん?と何かが繋がる。さっきスーパーで何か気になって後で調べようと思ったんだよな。
なんだっけ?ケチャップを矯めつ眇めつ、う~ん、う~ん、、、うん?なんでカゴメじゃなくてデルモンテにしたんだっけ?横道逸れ道。
かように解決されぬ謎が降り積もる。
期せずして解決することもある。
例えば、ある朝駅で、
私は駅にいた。位置的にも機能的にも大きな都市の中心にある駅だ。いつも騒々しく、足早に歩く人で溢れている。すれ違う人間の匂いが鼻を突く。喧噪も人混みも、知らない人間の体臭も苦手な私は給水所を通過する走者のように脇目も振らず駅を立ち去っていた。けれどその日は違った。
私は駅に留まり、いくつかある改札の中の一つに的を絞って、その改札を見渡せるコンコースの柱にもたれ遠くからやってくる人を待っていた。
私はその人に、どうしようもなく、会いたかった。
朝のニュースが大規模な通信障害が起きていることを伝えていた。大手キャリアのうちの一つは回線が完全に死んでいて、ほかのキャリアにも不具合が発生している模様、原因は調査中。私はその死んでいるキャリアを使っていた。その人も。気が合うのだ。電車の到着時間だけ聞いて、「着いたら電話して」と詰めの甘い待ち合わせをしていた私たちが落ち合えるとしたら、ここしかなかった。
私は、よくは知らないその人を、渇望していた。
背中に触れる大理石の柱が体の熱を奪う。改札と私の間の広い通路を、多くの相応しい人たちと、僅かなそぐわない人たちが通り過ぎていく。その人の姿を思い浮かべようとするが上手くいかない。元々映像を記憶する事が不得意だし、以前会ってから随分と長い時間も経っていた。
駅は様々な音で溢れていた。目の前を足早に歩く人たちの話し声やキャリーケースのキャスターの耳障りな音が響く。階上のホームから扉が閉まることを知らせるブザーや、列車が出発するアラームの音が漏れてくる。差し迫った音だ。注意を促し、警告を発しているのだ。
それとは対照的にぴーーーん、ぽーーーん、と間延びしたチャイムが駅のそこかしこで鳴っている。このあたりではどの駅でも聞く音だ。けれどなんのための音なのかがわからない。何かのタイミングで鳴るのであれば目的も予想できそうなものだが。
後で調べよう、とその場では思うのだけれど。
電車の到着時間はまだ少し先だった。携帯電話はまだ繋がらなかった。私は前日にその人が送ってきた三枚の写真を入れたフォルダを開いた。
三枚の写真には同じ人物が、違う服装とポーズで納まっていた。一枚目はトラディショナルなチャコールのスーツを着た微笑むロバート・キャンベル、二枚目はカジュアルなグレーのジャケットの微笑むロバート・キャンベル、三枚目は画面いっぱいの微笑むロバート・キャンベルだ。どの写真もインターネットで検索すれば出てくるものだったが、少し違う部分があった。何かのアプリケーションで頭頂部から上に向かう一本の短い黒い筋が書き足されていた。それは私にはちょんまげにしか見えず、私に向かって微笑むちょんまげのロバート・キャンベル以外のなにものでもなかった。子供じみたいたずらの様にも見える。私の歴史の教科書の肖像画はどれもひどいものだった。けれどその人はそういうタイプではなさそうに思えた。深淵とまではいかなくとも、なにか伝えようとしている事があるんじゃないか?
新幹線が遅れて到着したことを詫びるアナウンスがホームから聞こえる。私は微笑むちょんまげのロバート・キャンベルから改札のその奥の階段と、エスカレーターに目を向けた。
遠くからやってきたその人がエスカレーターで降りてくると私はすぐに見つけることができた。姿を思い浮かべることはできなくても実物が視界に入ればすぐにわかった。その人が私を見つけたことも。改札を抜け、私の前に立つや吹き出し身体をくの字に笑い転げる。真っ白なコックコートにエプロン姿の私を笑っているのだ。
「それは見つけやすくしてくれたのよね?」私はいそいそとエプロンを外しコックコートを脱いだ。火照る顔が紅潮しているのがわかる。嫌な汗まで噴き出す。「さっきそこで人波を見ていてさ」弁解は早口になる。「そぐわない人間ってすごく目立つなと思ったんだよ。少し時間があったからさ何かないかとそこの百貨店で探したんだけど職質されずかつそぐわないなんてこれくらいしか思いつかなかったんだよ」
「確かにそぐわない。ここではすごく目立つし、私はそれで見つけた。でもあり得なさ過ぎて真っ先に除外しちゃうという可能性はない?顔も見ることなく」そう言われればそうだ。私はいつも考えが足りないのだ。冷や汗が出る。「あなたたまにそういうことするよね、そんな風には見えないのに。それで後で赤面する」
どうしようもなく会いたかったその人は笑いが収まるとうん、と頷き、私もうん、と頷く。
うん。
百貨店で長めのトイレから戻ってきたくらいのやりとり。
「この写真だけどさ」画面の写真を見せると、「微笑むちょんまげのロバート・キャンベル」と笑うでもなく答えた。
城に行く地下鉄に乗り換えるには一度駅を出なければならない。
「こっちのモウドウレイは随分間延びしてるのね、以前来た時も思ったんだけど」
中央出口に向かって歩く中、その人がそう言った。
「モウドウレイ?何それ?」
「ずうっと鳴り続けているチャイムの音あるでしょ?ぴーーーーん、ぽーーーーんって」その人は人差し指で天井を指し、くるりと一周円を描いた。
「どんな字を書くの?」
「盲導犬のモウドウに、鈴」
こんな風に。
内堀に沿った歩道から天守は見えなかった。歩道の脇に植えられた桜は既に散っていた。春と言うには幾分暑すぎる。国宝に指定されたその城は桜の名所としても知られていたが目にする桜の木はどれも酷い幹割れを起こしているか、重い皮膚病のような木肌をしているか、その両方だった。
緑色に濁った堀の水面を幾種類かの鴨が波紋を立てて泳いでいた。「あれが見たかったんだよね?」すぽん、と潜ったキンクロハジロが再び水面に現れるのを探しながら聞くと「そう、あれが見たかったの」とその人は答えた。落胆したような様子はない。
その人とはよく博物館に出かけた。長く歩を止めるのは決まって、絶滅したものたちの前でだった。巨大な骨格化石であれ岩の模様にしか見えない甲殻類であれ、それらの前に来ると後ろ手を組んで、見る角度を変えているのか体を左右に揺らしながら長く留まった。私は揺れるその人の後ろ姿を眺めるのが好きだった。
その人はこの城内にだけ生息しているというカタツムリを見たいと言った。よく姿を現すという石垣の脇に説明書きの看板が立てかけられていたが、それがなければ気付かず通り過ぎてしまうほど特徴らしい特徴のない、至って普通の「カタツムリ」だった。
「絶滅もしていない」そう言うと「今のところは」と答えた。
「なんでまた城郭の中なんて限定された範囲の固有種なんて事になったんだろう?」キンクロハジロはまだ潜っている。
「カタツムリってのろまでしょ?乾燥にも弱くて、貝のくせに溺れる。川も山も海も越えられない。だから遺伝子が断絶しやすくて、種分化が起こりやすい。カタツムリって凄く種類が多いの。日本だけで800種類くらいいるのよ」ちゃぷ、という音がした方を見ると随分遠くでキンクロハジロが波紋の中を泳いでいた。
「とは言えお堀くらいは越えてもよさそうなものだけどね」
「ヒト族は今の所、我々ホモ・サピエンスしかいないみたいだけれど」雲が太陽を隠し、ひゅ、と西の方から冷たい風が吹く。
「私たちは川も山も、海さえ越えてセックスするからね」キンクロハジロは翼を打ち付けながら水面を風上に向かって走りだした。周りにいた水鳥たちもそれに釣られるように慌ただしく水面を走りだした。
何か食べよう、と外堀の橋を渡った先にある古い商店街へ向かうが昼営業の時間はとっくに過ぎていて、食事ができるような店はどこも閉まっていた。テーラーも果物屋も薬局も閉まっていたから時間だけのせいではないかもしれない。
いよいよ商店街も終わり、というT字路の突き当りの角に、小さな古書店があった。軒下に色褪せた映画雑誌を積んだワゴンが置かれ、その脇の小台に小ぶりな鉢植えの花がいくつか飾ってあった。「花も売ってるのかな?」その鉢植えに顔を近づけるとその人は根元に刺さった開店祝いのプレートを人差し指で指した。
かつて触れていた手と指が不意に目の前に差し出され、私は激しく動揺する。少しバランスを欠いた特徴のある手と指だ。鳩尾の辺りの何かが迫り上がってくる。その手はすぐに、今いるべき場所へ去ってしまう。
動揺を気付かれないようにぶつぶつとプレートに書かれたメッセージを読み上げる私を置いて「蘭かな?初めて見る色だけれど」と、古くはあるがよく磨かれた開き戸を引いて中へ入っていった。
古書店の店仕舞いには何度か遭遇したことがある。絶版になっていて買うには値が張る本が少し割引で買えたりしてそれはありがたいんだけれど、残念であることに違いはない。古書店の開店に出会うのは初めてだ。
書店の中は幾分風変わりな様相をしていた。小さな店内の左手側は書店然と書棚に書籍が並んでいたが、右手側は漆喰塗りの壁に棚が幾つも作り付けられていた。
ある棚には渾天儀や四分儀など古い天文観測の道具が、別の棚には地衣類や液体に浸かった寄生虫の標本が、と理科室で見たような道具たちが分野ごとにまとめて陳列してあった。道路に面した明り取りの窓の手前にはニュートンのゆりかごやカラフルな鉱物の標本が入ったガラスケースが置いてある。
漆喰の壁の一部を打ち抜いた先に六畳に満たない小部屋が設えられ、最近塗り直したと思われる年季の入った木製のテーブルが二台置かれていた。テーブルの壁際には古い顕微鏡と隣に木製のプレパラートケースが置いてある。
「実験室」同じ言葉が出る。
実験室の壁に貼られた大きな周期表を眺める私の脇腹を突くその人の方を向くと、顕微鏡と壁の間に立てかけた「普通のカレー」と大書されたメニューを指さしていた。普通のカレー?
店に入った時から人の気配は感じなかったが、奥を見ると薄いリネンで仕切られた古い病院の受付の様な窓の向こうで黄色いセルロイド縁の眼鏡をかけた初老の女性が本を読んでいた。
普通のカレーが来るまでの間、私は本棚を眺める。多くは一般向けの科学雑誌や書籍だが中に混じってランダウの力学や田崎熱力学なんかもある。割合としては菌類の書籍が多いようだ。背表紙にDictionary of the Fungiと書かれた鮮やかな紫色をした分厚い本がひときわ目を引く。 フンギ?きのこかな?と抜き出すと後ろからカチカチと規則正しい音が鳴り始める。その人がニュートンのゆりかごで遊び始めたのだ。私がShiitakeの欄を読んでいる間にカチカチはいったん止みカッチカッチへ、それもまた止み、カチャチャカチャチャと変わる。色々試しているのだ。カレーの匂いが漂ってきて、私たちが実験室に戻ってしばらく経つと初老の女性が普通のカレーを運んできた。確かに普通のカレーだった。
「普通のカレーってどういうことですか?」女性に私はそう聞いた。
「主人が退職してこの店を始める時にね、こんな店だからなにかケミカルとかマッドサイエンティストとか、そういう連想をお客さんがしちゃうんじゃないかと懸念してね、それでそんな名前にしたんですよ」
「なるほど」そんな連想はしなかったけれど、そんな人もいるかもしれない。
「そのせいでね、こうやって普通のカレーって何ですかっていつも聞かれてその度私が説明するのよ。今も店の事は私に押し付けてそこの城の林に粘菌探しに行っちゃってるし。お客さんに文句を言ってるわけじゃないんだけどね」
「なるほど」
普通のカレーは普通じゃなく美味しかった。カレーと店内で売っていたキムワイプの代金を払って釣銭を受け取りながらそう伝えると「そうでしょ?カレーはすごく美味しいのよ。カレー屋やってたほうが余程儲かると思うんだけどねえ」そう言いながら嬉しそうに笑った。
礼を言って店を出る。
ラン、ランララランランラン。ラン、ランラララン。
暫く歩くとその人がアニメの挿入歌を小さく口ずさみだした。その人の鼻歌を聴くのも随分久しぶりだ。ワゴン横の蘭の鉢植えが目に入ったのだろう。
ラン、ランララランランヲン。
ラがヲと似ていることに気付いたのだろう。そういうところがあるのだ。
「ラ・・・」
立ち止まりこちらを向く。
「裸族。私たちは一緒にいるときいつも裸だったわね」
そう言ってまた歩き出した。
駅は今日も足早に歩く人で溢れ、間延びした盲導鈴は鳴り続けていた。
吸い込み、吐き出された切符を持つ手を振り、改札の向こうで「またね」とその人が笑う。行き交う、多くの生活者と旅行者が放つ音に埋もれて聞き取れはしなかったけれど、多分そう言ったんだと思う。
私は「またね」と口を動かし、ぎこちなく笑って手を振り返す。締め付けられた私の声帯は空気を震わすことはできなかった。
一度ホームに向かってしまえば、その人は決して振り返らない。それは知っている。
その人を連れてきたエスカレーターがその人を連れ去っていく。登っていく後ろ姿を天井が頭から飲み込み始め、やがてその人は消えてしまう。遠くからやってきた人は、遠くへ帰っていくのだ。
鳴りを潜めていた盲導鈴の音が急に大きく聞こえだす。私は目を瞑り、その人の後ろ姿を思い浮かべようとした。やはり上手くはいかない。たった今の事なのに。今の今まで目の前にいたのに。手を伸ばせば触れられる距離にいたのに。
耳を澄ます。その人が役割を教えてくれたその音に。どれだけ耳を澄ましても、盲者を導くその音は私をどこへも連れて行こうとはしなかった。