毎年紅葉が染まりきる頃になると、妻はどこからか段ボール箱いっぱいの柿を手に入れてくる。
柿はいつもどれも色も形も美しく揃っていて、もちろん瑕なんてどこにも見当たらない。
これほど見事な柿を作るには相当な手間と柿に対する敬意が必要であろう事は容易に想像できたし、毎年この品質の柿を探し出してくる妻の情熱もまた相当なものだ。
冷たい風が街路樹の葉を散らすのを眺めながら帰宅するとキッチンから鼻歌が聴こえた。
今年も柿が届いたのだ。妻は柿が届くといつもその鼻歌を歌う。どこかで聴いた事があるような気がするメロディーだが正確には分からない。
一度「それってなんて曲だっけ?」と訊いた事がある。「曲って何のこと?」と不思議そうな顔をしてこちらを見る妻に「今歌っていた鼻歌だよ」と言うと妻は「鼻歌なんて歌ってないわよ」と真剣な面持ち(そこに怒気が含まれている事ははっきりとわかった)で答えた。それ以来その曲のことについては訊ねていない。
ドアを開けてキッチンに入ると既に半分ほどの柿が皮を剥かれていた。妻はとても素敵な笑顔で「お帰りなさい、ビール冷蔵庫に入っているわよ」と言った。もちろんその素敵な笑顔は私ではなく彼女の柿に捧げられたものだ。
私は冷蔵庫からビールを一缶手に取り、妻の向かいに腰を下ろした。妻は右手に持った包丁と左手に持った柿を巧みに操って精密な工作機械のようにするすると皮を剥いている。
「ちょっと手伝って欲しいんだけど」妻が言う。「いいよ」と私が言う。
私は消毒のための湯を大きな鍋に沸かし、紐とハサミをテーブルに置いた。それ以上の事を妻は求めてはいない。
随分腹が減っているような気がしたが柿を前にした妻に何を言えるわけでもない。ビールをもう一缶飲み干して「おやすみ」と言った。返事はない。
夜中に目を覚ます。隣に妻の姿はない。消毒を終えて撞木も結び終えた頃合いだろうか。明日の朝にはベランダに奇妙なまでに美しい柿たちが干されていることだろう。
妻は柿を中心にした生活を送る事になる。常に天気予報をチェックし、天気予報の誤りに舌打ちしながら晴れであれば日差しによって干す位置を変え、雨が降れば室内に取り込み、乾燥しすぎれば霧吹きで湿気をあたえる。
一月も経つ頃には完全な干し柿が出来上がる。不自然なほど自然な皺を持ち、重力を拒否するように均整のとれた干し柿だ。
私はその味を知らないし、妻も(恐らくは)その味を知らない。
完全な干し柿(それは瞬間的、決定論的に完成するものであり、誤差は五分とない)が出来上がると妻はそれをひったくるように掻き集め、段ボール箱に詰め込む。私が何処にいようが(船上にいようが戦場にいようが)今すぐ帰宅せよと命じる。
私は妻と妻の段ボール箱を車に乗せ、いつもの山のいつもの橋に向かう事になる。
私が橋の手前にある空き地に車を停めると妻は「少し待っていて」と言って完全な干し柿の入った段ボール箱を抱えて橋の方へ歩いていく。橋の中央で妻は箱の蓋を開けることもなく、躊躇なく橋の下に流れる緑がかった川に投げ捨てる。
妻は干し柿を作る事は愛しているが、干し柿そのものは憎悪しているのだ。
私は干し柿を投げ捨て、助手席に乗り込む妻の横顔を愛しているのだ。