夜に啼く鶯 -32ページ目

夜に啼く鶯

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妻の足音が変わってからどれくらい経つだろう。私は朗らかで、抑制されながらも明確な意思を感じさせる彼女の足音が好きだった。今の妻の足音からは混乱と悲愴しか聞き取れない。その音は私を弾劾しているように聞こえる。

 

乾いた洗濯物を黙々と神経症的な几帳面さで畳んでいる妻の周囲を強固な殻が包んでいることがわかる。私は話しかけるべきではないのにも関わらず話しかけなければならないのだ。盗っ人のカーストを想う。盗っ人以外の職につけば私刑され、カーストに従い盗みを働けばやはり私刑される彼ら。話しかければ罵倒され、話しかけなければ駆逐される私。どうせ悲惨な結末しか待っていないのならさっさと済ませてしまうにこしたことはない。

 

「かえるぴょこぴょこ…」

妻の手が止まる。妻は心の中で「みぴょこぴょこ」と反応してしまった。正確には「みぽこぽこ」と噛んでしまったのだ。それが却って彼女を逆上させる。ジェノサイドが始まる。

 

「ねえ、今の私の気持ちがわかる?」

もちろんわからない。妻であれ誰であれ他人の気持ちなんてわかるわけがない。自分の感情だってよくはわからないのに。せいぜい想像するか、察するくらいだ。でもそんなことは言えない。それくらいは私にもわかる。でもなんてこたえればいい?

「わかるわけがないわ」

先手を打たれた。その通りだし、何を言ってもこの言葉を聞く羽目になることに違いはないのだけれど。

 

深刻な表情で話し続ける妻の深刻な眉毛を深刻そうな表情で見つめていると妻がまだ恋人であった頃、彼女の誕生日に作った牛タンのシチューのことを思い出した。彼女は凄く美味しいと言ってくれたし、その後も誕生日が近づくと決まってあのシチューが食べたいと言ってくれた。お世辞ではなかったのだと思う。

 

恋人から妻になって幾年も過ぎて諦めかけていた頃、妻は身籠った。やがて誕生日を迎える。シチューのリクエストはない。恐らくは悪阻がひどいのだろう。

 

冷凍庫の中で牛の舌が凍てついている。

何度も作ったレシピがどうしても思い出せない。