夜に啼く鶯

夜に啼く鶯

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女が6歳の時に祖父は74歳で死んだ。死は予告されていたがそれでも両親は動揺した。

 

珍しい病気なので人類の将来のためにお願いしますどうぞご理解を、と照明の落とされた巨大な病院の迷路のような廊下の片隅で両親に解剖を迫る白衣の男に女は腹を立てた。

 

暫くは家の事は出来ないからと近所ではあるけれどよくは知らない親戚の家に預けられたことが一層腹立たしかった。

 

女は祖父のことをよくは覚えていない。何か厳しいことを言われた記憶はないが厳格だった印象がある。

後になって祖父が女のことを溺愛していたと周りから聞かされ意外に思う事が何度もあった。

痩せた体躯の持ち主だった事は覚えている。年齢の割に濃密な葦毛のような黒髪混じりの白髪を短く刈り上げ黒檀の様な色をした枠の眼鏡をかけ、いつもグレーのフランネルのチェック柄のシャツを着ていた。ズボンを吊るサスペンダーが肩に食い込んでいた。

どんな顔をしていたかも思い出せないのに祖父に付随する映像は不思議と思い浮かぶ。

 

どの様な経緯なのか駄菓子屋を営み始めたが、店はいつも放ったらかしで、女が留守番のようなこと頼まれていた。祖父が耕していた裏の畑にあった葉ぶりの良いイチジクの木のナメクジのような模様の木肌、在庫の棚に並ぶ埃を被った紺色の万年筆のインクの台形の瓶、古時計のような形をした緑色のシャンプー、オレンジ色と緑色のゼンマイのような絵の描かれた入浴剤、子供たちが群がるサーカス色の綿あめの機械、寒そうな山のイラストが描かれた冷凍庫。

 

ヱツ婆と近所の者が呼ぶ老婆がいた。色褪せた藍色の絣を常着し、いぶりがっこそっくりの茶色く深い皺の刻まれた肌を持つヱツ婆は毎日陽の一番高い頃に煙草を買いにきた。老婆は「エコー」と思われる喉の喘鳴と共に五百円札を差し出し、女はエコーを釣りと恐れとともにその手に触れないように渡した。満足そうな表情で煙草を受け取ったヱツ婆は涼しげな絵の描かれた冷凍庫の隣のベンチに腰掛け、歪んだ口の端に咥えたエコーに火をつけた。濃い煙を吐き出す時、老婆は女にはわかりかねる表情を浮かべた。笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。何に納得したのかは解りかねるが、吸い終えた煙草をうんうんと頷きながら灰皿に押し消すと店の前の用水路を跨ぎ、着物の裾をたくし上げ、性器をあけすけに濃い色の小便をした。「あの人はね」祖母が言う。「ひゅ、とどぶ川に入ってザリガニを捕えて殻を剥いてたべちゃうんだよ」

女は奥まった場所にあった大きな鈍い艶を帯びた灰色のスチールラックが好きだった。スチールラックは冷たくよそよそしかったがそこには文房具が親密に並べられていた。女はとりわけ鉛筆が好きだった。箱の中に納まった規律ある行儀良い佇まいと匂い、なにより削るたびに短くなっていくところが愛しかった。終りはあるのだ。

 

時折祖父の古くからの友人が店を訪ねてきた。彼らは駄菓子屋の斜向かいの空き地にタクシーで乗り付け、映画の中の的屋が持っているような大きく角ばった茶色い鞄を携えてよたよたと降りてきた。祖父が店先で彼らを迎える時、彼らは敬礼こそしなかったが、そうしていてもおかしくはない厳とした雰囲気があった。

祖父は挨拶もそこそこに家族が「奥の部屋」と呼んでいた店とはガラス戸一枚で仕切られた部屋に彼らを招き入れ、いそいそと碁を指し始める。

 

奥の部屋の南の小壁には御前会議の絵と勲章が幾つも入った額が並んで掛けられている。北側の壁の高いところに据え付けられた書棚の中には金色の文字で「特級」と書かれた琥珀色のウイスキーの瓶が何本も誇らしく並べられていた。全く酒の飲めない祖父は瓶に入った売り物のコーヒー牛乳を店の冷蔵庫から持ってきて飲み、彼らにはウイスキーをしきりに勧めた。

 

祖父が家族に昔の話をする事はなかったが、彼らと碁を指す時は違った。いつも種だらけの青いバナナや必ず腹を下す胡桃に似た木の実の話をしては皆で吹き出した。祖父が上陸したその島にはぬかるんだ幾筋もの尾根道があり、窪地に誘き出された敵兵いて、高台に潜む日本兵と彼らに合図を送る祖父がいた。

祖母は来た時よりもいくらか打ち解けた彼らの帰った西日の差す奥の部屋の片づけを終えるとマッサージチェアに体を委ね、何度も聞いた「向こうの向こうのホームにいる兵隊さんが踵を合わせてピシッと敬礼するんだよ」と将校だった祖父との新婚旅行の思い出を誇らしそうに語った。

 

「センダイ、リクグン、ヨウネンガッコウ」女が声に出して読み上げる。

女は女が選んだキッチン付きのホテルのベッドで備え付けの大きすぎる浴衣を着てうつ伏せにどこからか取り寄せた祖父の軍歴を熱心に眺めている。女がなぜそんなものに関心を寄せたのか男は知らない。男は世界にそんなものがあることさえ知らなかった。

男がカップ焼きそばの湯切り口から流れる濁った湯をぼんやりと視線にとらえているとベコンとシンクが音を立てた。「なんで海沿いの美味い料理を出す店に囲まれたホテルで俺は焼きそば作っているのかな?」男が聞いて女は答えない。女の機嫌が悪い訳ではない。

甘い湯切りのせいで味が薄くなったカップ焼きそばを男はずるずると啜り、女は祖父の軍歴を読み続ける。

祖父は世界を渡り歩いていた。九州から朝鮮半島に渡り、京城を抜けて満州へ出兵したのが最初だった。後にミンダナオ、ボルネオ、ニューギニアと南方の国名が続く。

 

カップ焼きソバのソースの香辛料の匂いが女の鼻腔を突き、女は息を止めた。窓の外に視線を移すと、空に浮かぶ月に雲がかかっていた。

「本州の真ん中で生まれた人間が遠く離れた仙台のリクグンヨウネンガッコウに行くというのは当時は普通のことなの?ヨウネンって幾つ?」女は男に聞いている訳ではない。

陸軍中野学校という名前は聞いたことがあったがそれは飽くまで教科書やフィクションの世界の話だった。よくは覚えてはいないとはいえ同じ時間を確かに共有した人間の淡々と書かれた経歴に登場したその言葉は妙な生々しさに満ちていた。

 

「私は海外に行った事がないの」女が窓の外を眺めながら言う。

「行こうとしてパスポートはとったのよ。ホテルを取って飛行機も手配して。いざ出発というとき、いつも決まって良くない何かが起きて行けなくなるの」

 

女のはだけた浴衣から伸びる足が不規則なリズムを刻む。

男は窓の外を眺める女の後ろ姿を見る。