まず、今回アップしたのは僕自身が向き合った対話の内容です。全ての人にあてはまるかどうかは別です。そして、この【怒り】の根源は愛ではなく、恐れです。
僕自身も過去の体験を通じて思うのですが、【怒り】を出しまくっている人は、敬遠されたり距離を置かれたりしますよね。
【怒り】という感情の出し方は、他者に出すのではなく、ひとりの時に出すを心がけています。他者に出せば、当然出された方も嫌悪的な感情になる。ですから、誰もいない寝室で、車を運転している最中に、山で、海で、大声をだす(笑)
そんな表面上の恐れの中でも、【愛】を見つけるとするならば、自分自身に向けた愛です。表が愛、裏が恐れ、その裏の裏は?ということを自問自答します。少し難しい表現になってしまいますが、自己愛、自己理解を探っていくのです。
『なぜ、あなたは怒りという感情が強いの?』ということを自分自身に問うていく。
例えば、過去の体験で他者から【怒り】をぶつけられていろんな痛い感情を感じた。
だから、自分が逆の立場になった時に他者に怒りの感情をぶつける。
これもひとつの自己理解ですよね。
怒りというのは、《心の葛藤、防衛》です。
僕の心の中の裏の裏…。実はこの部分に
『自己愛へのきっかけ』というものが詰まっている。
ひとつは、感情に良い悪いはないという上で、どんな感情も解放し、感じ切ってあげたという意味での愛。
怒りというのは、《心の葛藤、防衛》です。
僕の心の中の裏の裏…。実はこの部分に
『自己愛へのきっかけ』というものが詰まっている。
ひとつは、感情に良い悪いはないという上で、どんな感情も解放し、感じ切ってあげたという意味での愛。
もうひとつは、その【怒り】の感情の裏側に、『本当は愛してほしかった。』『本当は愛したかった。』気がついた時の自己理解の愛。
『本当は愛したかったんだよね』
『本当は愛して欲しかったんだよね』
『本当は寂しかったんだよね』
『本当は自分の意見を聞いて欲しかったんだよね』
『本当はわかってほしかったんだよね』
こうやって、自分自身に優しく声をかけてあげる。
自己理解というのは、自己愛に繋がる。自己愛があってから初めて他者愛になる。
どんな自分でも無条件で愛してあげることからすべては始まる。
このブログのきっかけになった、Facebookの投稿はこちらです。
【怒り】
怒りでしか感情表現できなかった自分。
怒れば人を変えられると思っていた自分。
怒ることで他者をコントロールしていた自分。
怒ることで他者を抑えつけていた自分。
怒ることで自分の思い通りにしてきた自分。
正義という大義名分を怒りとして出してきた自分。
間違えを認めず、怒りで正当化してきた自分。
そんなことしても逆効果なのはわかっているのに…
本当は自由になりたかった。
本当は愛したかった。
本当は愛されたかった。
これが自分との対話。
これが自分の心と向き合う楽しさ。
ひとつの感情、ひとつの出来事を平面的ではなく立体的に捉える。その裏側に隠されているものを探る。それはいつでも愛というものが中心にあるはず…
感情に良い、悪いはない。だから、自分とたくさん向き合って対話し、自分をたくさん理解し、どんな自分でも愛すること。
それができることでたくさんの幸せにフォーカスできる。
愛と光と感謝を。
『本当は愛したかったんだよね』
『本当は愛して欲しかったんだよね』
『本当は寂しかったんだよね』
『本当は自分の意見を聞いて欲しかったんだよね』
『本当はわかってほしかったんだよね』
こうやって、自分自身に優しく声をかけてあげる。
自己理解というのは、自己愛に繋がる。自己愛があってから初めて他者愛になる。
どんな自分でも無条件で愛してあげることからすべては始まる。
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【怒り】
怒りでしか感情表現できなかった自分。
怒れば人を変えられると思っていた自分。
怒ることで他者をコントロールしていた自分。
怒ることで他者を抑えつけていた自分。
怒ることで自分の思い通りにしてきた自分。
正義という大義名分を怒りとして出してきた自分。
間違えを認めず、怒りで正当化してきた自分。
そんなことしても逆効果なのはわかっているのに…
本当は自由になりたかった。
本当は愛したかった。
本当は愛されたかった。
これが自分との対話。
これが自分の心と向き合う楽しさ。
ひとつの感情、ひとつの出来事を平面的ではなく立体的に捉える。その裏側に隠されているものを探る。それはいつでも愛というものが中心にあるはず…
感情に良い、悪いはない。だから、自分とたくさん向き合って対話し、自分をたくさん理解し、どんな自分でも愛すること。
それができることでたくさんの幸せにフォーカスできる。
愛と光と感謝を。