前回のブログ以降いろいろ考えてるうちに思いついたことがあるので一応記録として残しておきます。

プロローグの映像について王子のトラウマと書きましたが、それだとあまりストーリー上意味がないような気がしてました。どこかの解説でそう読んだのでそのまま鵜呑みにしてましたが、もっと別の解釈があるような気がします。

そもそもこのバレエをどう見るかですが、私はキーワードは「グレートマザー」だと思います。これについてはプレトークでも軽く触れてましたが、あまり深くは語っていませんでした。しかしこれこそが核心のような気がします。

グレートマザーとはユングの唱える元型の一つですが「母なるもの」の総体的象徴です。どういうことかというと、例えばどこの神話にもある豊穣神はたいてい女神です。「産む者」「育む者」として母性と関連づけられています。キリスト教がヨーロッパを席巻するにあたって土着の豊穣神が聖母マリアに転換されたといわれています。その意味ではマリアもグレートマザーです。キリスト教は本来イエスを信仰する宗教なのに、聖母マリア信仰が世界中で人気があるのは、人々が今でも豊穣神信仰、つまり母性に対する信仰を捨てきれないからだという説もあります。

グレートマザーにはポジティブな面だけでなくネガティブな面もあります。それは「飲み込む者」であり「押し殺す者」だからです。実際の母親にもその二面性があり、それが抽象化されたものと言えます。おとぎ話によく出てくるドラゴンはグレートマザーのネガティブな面と言われています。

で、このバレエですが、夜の女王も王妃もどちらも母親です。しかしだからと言って単純に善と悪の対立とか、光と闇と対立とかいうものでもないでしょう。マイヨー自身が光と闇の対立と言っているのは承知の上ですが。
前に父系社会と母性社会の話をプレトークでしてると書きましたが、これもこの話を母系社会の象徴と見るのは違うような気がします。なぜなら本当に母系社会なら女性が現実に権力を行使できる立場にあり、その責任も負うからです。そして社会の中で「個」を超えた判断ができることが求められます。しかしこのバレエの王妃はあまり自分の行動の影響やそれがもたらす結果について考えたとは思えません。これは普段自分自身が抑圧され、実際の権力者である王の妻として、あるいは次期の王である王子の母親としてしか存在の意味を与えられていないからです。つまりりっぱな父系社会そのものです。

このような状況で彼女の母性は未発達のままネガティブなグレートマザーになってしまいます。冒頭のフィルム映像は王子のトラウマではなく、実は王妃のトラウマです。目の前で少女をさらわれた王妃は、いつか王子もさらわれるのではないかという恐怖感を抱いたことでしょう。それが十数年後再び夜の女王が現れた時に顕在化します。夜の女王は闇の象徴として描かれてますが、実はさらに深い闇が王妃の方にあったということです。つまり光と闇の対立ではなく、闇とより深い闇の対立です。そして結局はおとぎ話のドラゴンが全てを滅ぼしてしまうように、彼女たちは結果としてどちらの子供も殺してしまいます。
こう考えるとこの物語は未熟な王子の物語などではなく、ネガティブなグレートマザーの物語だと読むことができます。
そしてすべての大人がかつて子どもであり、少なからず母親の影響下にあったことを考えれば、この「母親による子殺し」のテーマは時代と地域を超えて普遍的テーマになりうるのだと思います。