昭和の息吹
三島由紀夫の『不道徳教育講座』を読んでいる。実は、三島由紀夫はユーモアたっぷりの、とっつきやすい人物だ。これはエッセイだが、やっていることは上質のスラップスティックなのであり、純文学ではやれなかった鬱憤を晴らしているのではないかと思えてくる。
これを読んで、即刻「いいこと言うなあ」と感心するのはバカの所業である。何重もの鏡を用意して、逆さに映しては元に戻すという作業を行わなければ、三島が言わんとする真意は読み取れないのであって、深読みに限りなく近付いてしまうほどの注意深さによって、逆説の逆説の逆説までをも読み取り…。
とまあ、こんなことはしなくてもよろしい。注目して欲しいのは、時代性である。
とりとめもない会話の一例として、こんな科白が提示されている。
「君たちは何をやってたんだい」
「よっかかって来る難破船をおしのけおしのけ歩いて来たんだわ」
前者は三島の、そして後者は頭の少し弱い、遊んでばかりいる少女の科白である。「文化は日々進歩している」などと吹聴する番組などは、一笑に付したくなる。いま、渋谷の街をうろついているバカの内、何人がこんな味のある科白を吐けるだろう?
「うぜーオトコがしつっこいからさあ、どけよって感じでー。あははー、死ねよ」
せいぜいこんなことしか言えはしないのだろう。
勿論、今と昔は違う。けれど、敗戦後の日本にも誇るべきものはあったのではないか。
かつて、三輪明宏がこんな話をしていた。
付き合ってはいないが、仲のよい女学生と男子学生がいた。女学生の方は、早く交際を始めたい。なのに、男子学生はなかなか言い出してくれない。
するとある日、女学生は男装をして、男を待ち伏せてこう言うのだ。
「君、今夜あたり僕を奪いに来たまえよ」
別にこの科白に関して、どうのこうの言うつもりはない。けれど、西洋文化を飲み込み、日本流に改めてしまった日本文化の息吹を感じることはできるように思える。男装した女学生はこの上なくキュートだし、この科白のあと、照れるに違いないということも分かる。
どうして、演じるということが一般生活から離れてしまったのだろう。本音だけがいいものではないのだ。本音を隠すための、あるいは照れ隠すための演じるという行為は、生活に味を加えてくれる筈なのに。
これを読んで、即刻「いいこと言うなあ」と感心するのはバカの所業である。何重もの鏡を用意して、逆さに映しては元に戻すという作業を行わなければ、三島が言わんとする真意は読み取れないのであって、深読みに限りなく近付いてしまうほどの注意深さによって、逆説の逆説の逆説までをも読み取り…。
とまあ、こんなことはしなくてもよろしい。注目して欲しいのは、時代性である。
とりとめもない会話の一例として、こんな科白が提示されている。
「君たちは何をやってたんだい」
「よっかかって来る難破船をおしのけおしのけ歩いて来たんだわ」
前者は三島の、そして後者は頭の少し弱い、遊んでばかりいる少女の科白である。「文化は日々進歩している」などと吹聴する番組などは、一笑に付したくなる。いま、渋谷の街をうろついているバカの内、何人がこんな味のある科白を吐けるだろう?
「うぜーオトコがしつっこいからさあ、どけよって感じでー。あははー、死ねよ」
せいぜいこんなことしか言えはしないのだろう。
勿論、今と昔は違う。けれど、敗戦後の日本にも誇るべきものはあったのではないか。
かつて、三輪明宏がこんな話をしていた。
付き合ってはいないが、仲のよい女学生と男子学生がいた。女学生の方は、早く交際を始めたい。なのに、男子学生はなかなか言い出してくれない。
するとある日、女学生は男装をして、男を待ち伏せてこう言うのだ。
「君、今夜あたり僕を奪いに来たまえよ」
別にこの科白に関して、どうのこうの言うつもりはない。けれど、西洋文化を飲み込み、日本流に改めてしまった日本文化の息吹を感じることはできるように思える。男装した女学生はこの上なくキュートだし、この科白のあと、照れるに違いないということも分かる。
どうして、演じるということが一般生活から離れてしまったのだろう。本音だけがいいものではないのだ。本音を隠すための、あるいは照れ隠すための演じるという行為は、生活に味を加えてくれる筈なのに。