事、って大切だし、素晴らしいと思うことがある。
お友達と言っては彼に失礼かもしれないが、
彼は私には、数少ない外国人のお友達の中の一人だ。
ラテン系の話好きの彼とは、よく話をする。
彼はスペイン語がネイティブ。
スペイン語どころか英語もろくに離せない私は、もちろん日本語での会話。
日常会話には、全く不自由しない彼であるが、
当然日本人と話しているようにはいかない。
できるだけ一般的でわかりやすい表現を心がける。
博多弁など論外である。
(でもたまに彼の口から、博多弁が飛び出すとホッとしたりする。)
それでも、育ってきたバックボーンみたいなものが、
ラテンの方と日本人、少しばかり違う。
このことを文化が違うと称するのかもしれない。
以心伝心とか、あ・うんの呼吸なるものには、
あまり期待できない。
日本人同士の会話は意識しなくても、その上に成り立って
いることを感じる瞬間でもある。
でも、そればかりではない。
家族や友人を大切だと思う気持ちや、
ありがとう、ごめんなさいの気持は万国共通だ。
彼と夫そして私と3人で話していると、
私は典型的な日本人だと感じる。
つい、説明が面倒になり、いや説明することをあきらめて
あいまいな相槌をうってしまったりする。
(にっこりと意味不明の笑顔をうかべて)
あぁ、これが日本人は何を考えているのかわからない。
と言われる所以かと反省。
ところが、彼と夫は違う。
お互いの考えを言葉をつくして説明しようとする。
何度も、お互いに言葉を変えて・・・・。
確かに平行線をたどることもあるが、
少しづつ、ほんの少しづつではあるが理解していく。
お互いにそうだなぁと思うことがある。
素敵なことだ。
二人のおかげで、私も彼のバックボーンを少しづつ理解できる。
もちろん、100%理解できる事ばかりではない。
違いは違いとして受け入れる。
文字にしてみれば、あたりまえの事だが、
どこまでいってもコミュニケーション。
言葉をつくして、説明する努力は大切。
普段、自分はちゃんと相手を理解する努力、
自分を理解してもらう努力をしているのか?
同じ日本人でも、育ってきたバックボーンも、
立場も違う。
自分と考えが違うからと、
意見が違うと後が面倒と、
話す事をあきらめていないか?
違いは違いとして、受け入れるには、言葉をつくして話す以外に
近道はないのかもしれない。
(追記)
昨日、朝青龍関が引退
日本の文化・習慣の中で奮闘したと思う。
一般人の社会より、伝統を重んじる世界。
なかなか、外国人には理解できない世界であろう。
でも、彼に関わった人たちは、本当に言葉をつくして、
話をしたのか?
批判ばかりでなく、丁寧に・・・。
『あいつは、言うたっちゃ分からん(言ってもわからない)』と
放り投げてはいないか?
自戒の意味を込めて、
これからの、国際社会を生きるためにも、言葉を惜しんではいけない。
と強く思った。
初め考えていた文書より、すこしばかり、硬くて偉そうな文書に
なってしまった。
・・・。