生長の家についてその教義を中心に説明したいと思います。

 まずは創始者である谷口雅春の死去を報じた週刊文春(1985年7月4日号)の記事からです。

《 生長の家といえば、公称信者数300万人を擁する新興宗教の雄だが、その創立者・谷口雅春総裁が、このほど亡くなった。大正6年に大本教に入信。機関誌の編集にあたったが、大正11年大本教を去った。昭和4年、「物質はない、実相のみがある」との神示を受けたと称し、翌年雑誌「生長の家」を創刊。人生苦の解決と病気快癒の体験で評判になり、多数の読者を獲得した。戦時中は天皇中心主義、軍国主義を鼓吹して信者を増やしたが、終戦後は一転して自由と平和を唱える。講和後は再び右傾化。帝国憲法への復帰、国家神道の復活等を訴え、戦後の右翼運動の精神的な支柱の1人になった。(中略)この谷口雅春氏をどう評価するか。
 
「あの人は文学青年でしたから、初期の頃の著作は大変ロマンチックで文章もうまかった。文学青年の段階でとまっていれば評価できるんですが、その後ウルトラ国家主義路線を打ち出して来た。過激な右翼青年を輩出した危険で有害な人だと思います。そういう路線は、私が考える本来の宗教とはなじまない。普遍性を持ち得ないから民族宗教に留まり、世界宗教たり得ない。教勢拡大のためには、ウルトラ国家主義では布教しにくいので、やや手直しをするのではないでしょうか。」(宗教評論家・梅原正紀氏)》




「黒い宗教 その実態と悪の構図」石井岩重著、1984年発行

《 ここで私が言いたいのは、谷口の一貫して変わらない体制順応主義、権力への迎合ぶりである。昭和12年に日華事変が勃発して、日本が軍国主義時代に突入して行った後、ほとんどの宗教団体はその存続を図るために、カーキ色を帯びはじめたが、谷口はより急進的だった。国家が広がることは“実相”が拡がることで、「日本軍の進むところ宇宙の経綸が廻る」と“念波”の一斉祈願で敵軍を圧迫するため「光明念波連盟」を結成し、天皇絶対化の度合が手ぬるいと文部大臣に公開状を送り、満州を講演旅行して歩いた。「非常時に労働争議を停止させ、反戦思想を抑圧するのに最も効果のあるのは光明思想である」     (「生長の家」17年10月号)

 と、 いやはや大変なタカ派ぶりである。それはそれでかまわないし、ファシストなどと言うつもりはない。ところがである。敗戦後の谷口の態度はどう変わったか。「今や自由を得た。生長の家ほど平和愛好の教えはない」とこうだ。この臆面の無さはどうだ。恥ずかしくないのであろうか。そして、それまでの国家主義的な色彩を極力払拭し、急激にキリスト教的なものを強く打ち出している。それにもかかわらず、戦後しばらくして、公職追放組が解除されて権力の座にカムバックするようになると、とたんにまた、日本主義、 愛国主義、反共主義を打ち出したのだ。このような節操のない人物をはたして信用していいものだろうか。私が「生長の家」に対して抱く不信感は、以上のようなことに強く裏打ちされている。》



【教義の概略】

・ 全ての存在は、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものであるところの完全なる生命、すなわち神が現れたものである。従って、人間の実相(本当の姿)は神の子であり、無限の愛、無限の知恵、無限の自由、その他あらゆる善きものに満ちた永遠不滅の生命である。

・人間の実相はあらゆる善きものに満ちた神の子であり、絶対唯一神が<全き善・無限知・無限力>で創った世界(生長の家はこの本来の世界を「実相世界」と呼びます。)は完全である、すなわち無限の幸福に満ちた世界なのであるから、「実相」を悟れば事態・環境・法則は自ずから無害有益なものに為り、真に「無限供給の神の恵み」を受ける事が出来る。つまり貧・富・健康・幸福等、何でも自由自在に現すことができる。

・ 我々が5官によって認識する世界は、心とは独立した客観的実在ではない。現象の世界は、全体の膨大な情報量のうち、肉体の5官で受け取ったごく一部の不完全な情報を、脳が組み立て直して仮に作り上げている世界である。物質はない、肉体はない、だから世の中に戦争やテロがあったり、病気などの不完全な出来事があるように見えるが、それらはすべて「現象」であって実在しない。心に思い描いたものが現れたものがこの物質現象界なのであるから、心のあり方によってどのようにでも現れる。


 一見するとよい教えのように思われるかもしれませんが、これがなかなか危険な教えなのです。生き方を学んで自らの心がけを省みたりといった本来というか正しい宗教とは全く違うことがお分かり頂けると思います。生長の家の教えを理解し「神想観」という行法(これとて谷口が元いた大本教の「鎮魂帰神」という行法を真似たもの。戦前のことですが大本教が弾圧されそうになる気配が濃くなるや、それまで世話になった恩義などどこへやら、さっさと逃げ出しました。)を修しさえすれば人間の実相である「神の子」の本質が現れ、人格も神の如くに成り、健康、富も思いのまま、あらゆる願いが実現するといったどちらかと言うと魔術に近いような宗教なのです。



 昭和を代表する評論家である大宅壮一は著書「宗教を罵る」の中で次のように生長の家を批判しています。
 
 <人間はまず心に思って、それによって行動し創造するではないか。それでも判るように 心こそ主人、精神こそ肉体の支配者である。いや、本当に存在するのは心だけで、物はその影にすぎない。スクリーンに映じる万象が、実は存在せずフイルム面のしみの影にすぎないのと同じこと。この真理を悟って精神が肉体の束縛を離れれば、フイルム面のしみは消えて、スクリーン一杯に精神の光明が輝く。肉体無し、ゆえに病気も無い。病気は本来無い、と悟った時、すなわち病気は治っている……。>

‥‥どんな観念論者でも、盲人が気を取り直し悲しみを超越することと、実際に目が再生することとは別だ、ということを知っている。ところが谷口の「大真理」によると、目を生やすも無くすも心のまま、ということになる。‥‥要するに、ゴテゴテの観念論を漫画化したような教えにすぎないのだが、物質に対する観念の優位を説くためには、どんな観念論哲学でも、観念論を説いているどんな宗教の教義でも自由に借りてこられるわけで、唯物論をしっかり掴まず、哲学的な考えに慣れてもいない一般の読書層としては、谷口の巧みな話術に抵抗することは難しい。

「生長の家」以外の思想的知識をあまり持たないA君は盲信してしまった訳なのです。物質は究極的には実在しないものであるとは私も思います、私が「物質はあくまでも“本来”ないものだ」と言ってもA君は「物質はない!」と言い張り、聞く耳を持ちませんでした。

 A君はよく素粒子の非実在を語っていました。物質は究極的には実在しないものであるとは私も思います、素粒子物理学においては素粒子を砂粒位の大きさだとすると人体は太陽系程の大きさになるのです。つまり一臓器ですら地球より遥かに大きいことになります。原子・元素の組み合わせ・配列で物質の性質・作用は決定されます。素粒子の次元で非実在だからといって、それがいか程の意味があるでしょうか。物質の非実在など現代人の常識なのです。


 大宅氏の批判をさらに紹介すると
・太田某は、顔を剃ると必ずカミソリで1箇所は傷を作っていたが、生長の家に入ってからちっとも顔を切らなくなった。
・家ダニに困っている家で、神想観をして立ち去るように命じたが、去らない。そこで、「ダニだって住む所が必要なのだ」と反省して、家中の畳を剥いで6畳1室に積み重ね、「この室をあなた方の棲み家に提供しますから、これからどうぞこの部屋から出ないで下さい」と言って、また神想観をすると、それ以来ダニは刺さなくなり6畳の部屋に列を作って生活している。

・前橋のある養蜂家が「生長の家」に入って「神のお送りになったこの世界は無限供給であって、必ずよき成績が上がるものだ」と信じていると、去年の倍ほどの成績を上げることができたし、先日ひょうが降って桑の葉が傷めつけられた時にも、自分の畑だけは別に損害を蒙らなかった。

・五十嵐某は、隣の工場から出火し、折悪しく風下だったが、自分は「生長の家」だから、火事に焼けるなどということはない、と言って悠々としていると、途端に風向きが変わって風上になった。

・某の孫が疫痢にかかったとき「天地一切のものと和解せよ」という教えに従って「ばい菌よ、お前といえども生命である。生命は神から来たものであり、我々もまた生命であって神から来たものである。されば汝と我々とは神において兄弟ではないか。汝兄弟なるばい菌よ、私らは決して殺菌剤を使ったり、注射したりしてお前を殺そうとはしないから、お前もこの子供を殺さないでくれ」と和議を申し込むと、たちまち熱は下がって快癒した。
 
 これに似た「実例」は「生命の実相」を始め生長の家の発刊物から無数に拾い出すことができる。これが、もし事実だとすれば今日までに人類が築き上げてきた科学も文明も、根こそぎ覆ってしまいそうな一大驚異だが、もしそうでないとすれば、人心を惑わすこと、これほど甚だしきはなく、正に詐欺以上である。



生長の家の教えを悟れば病気が治るという主張を谷口の著作から幾つか紹介すると

・不幸や病気が現れているのは、ただ眠って夢を見ているだけのことであります。だから、吾々は眼を覚ませばいいのです。初めから吾々は如来であり、初めから救われている。如来は眠って居っても如来である。眼を閉じて居っても盲目ではないのであります。病気のように見えていても健康なのであります。吾々は神の子であり、本来、如来でありますから未だ嘗て迷ったことはないのでありますが、勝手に心の眼を瞑って病気や不幸災難の夢を見ているのですから覚めればいいのであります。

・此の肉体の谷口雅春はまだ1人の病気も治したことはないのである。『肉体は無い』のであるから『無い谷口』がどうして病気を治したり出来るのであるか。また『病気は無い』のであるから『無い肉体谷口』がどうして『無い病気』を治し得よう。ただ『無い病気』を治す道は、真理の明るみの前に照らし出すだけで好いのである。手紙の返事よりも尚詳しい返事が聖典に書いてある。それを読んで理解する者は救われるのである。

・利己的目的で病気が治りたいだけには道場へ来ない方がよい。病気は物質に執着せる利己心の投影であるから、利己的に肉体に執して肉体を健康にしたいというのは要するに自己撞着である。そういう人は利己心の代価をしっかり医者に払うがよい。その方が医者救済になる。生長の家は医者と競争しない。病苦の中にも病苦を見ず、他を救おうとする決心のつく者のみ『生長の家』で救われる。『生長の家』の救いは『心』の全般的救いであって、肉体が治るのは心が治った反射に過ぎない。だから他動的に治して貰っても真理の書を読みこれを理解しようと勤めない者の病気は再発するのは当然である。

・「‥‥あなたのお子さんの扁桃腺が小さくならないのは、あなたが扁桃腺で苦しんでいるお子さんの姿を本当の姿だと認めて、それを治そう治そう、とあせっていられるからですよ。治すも治さぬもないではありませんか。肉体はないのです。つまり病気は本来ないのですから、本来ない扁桃腺炎をあなたが勝手にあると設計して、扁桃腺炎ばかりに捉われているから、その心が反映していつまでもお子さんの扁桃腺が腫れているのです。」

・「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気に罹る訳であります。」「便秘はケチの心の影」、「ヘルニアはへそくりの心の影」 「舌ガンは嘘をつく心の影」、「咽喉ガンは悪い言葉の心の影」



 次は「本当の生長の家を伝え遺す信徒連合」が開設している『今昔物語』というサイトにおいて谷口雅春の著作の中で述べられているエピソードから信者が「病気や不幸をいくら研究しても良きものは出て来ない。実相を追求してこそ良きものが出る。」と珍妙なタイトルで次のような見解を述べています。 

《 ある僧侶出身の自然科学書の著述家が谷口先生に「病気の存在を認めない生長の家が本を読んで病気が治るというのはインチキだ。」というような質問をした。「インチキによってでさえ治るのが病気なのだから、病気の存在こそまさにインチキだ」と谷口先生はお笑いになった。しかし「生長の家は肉体の病気治しではありません。私はまた病人に手も触れません。」「私は病人が治してくれと言って来ても治しません。病人は自分自身の心で病気を作っているのですから、私の話を聴いたり、私の書いた本を読んで心が癒れば、病気が自然に治るのです。」 》
 
 砂糖の甘さは嘗めれば即座に解るのですが、そんな事ははしたないとして、化学者は砂糖の甘さは研究室で化学分析によって追及するのが理性ある学者の姿勢であると研究を続けます。そして砂糖の甘さの実際を知らないで一生を過ごすのであります。従って学者は「病・悩・苦」の現実的解決は出来ませんが、覚者は「病・悩・苦」の現実的解決を行なうのであります。学者は「悟り」は潜在意識で起きる、と考えますが、覚者は、「無の関門」を超えて「悟り」を成就された「霊的覚醒者」であり、心理学的にいえば、「悟り」とは、潜在意識・深層意識を超越し、意識の釜の底をぶち抜いた超高次元の超意識の世界(境地)で起きるもの、ということが出来るのであります。学者は、殊更に難解な言葉で理屈っぽく語りますが、覚者は、平易な分かりやすい日常の言葉で的を射た端的な言葉で語るのであります。学者と金持ち、後回しです。

 奇蹟のない宗教では、医者や社会から見放された人々の”病・悩・苦“は救われません。開祖・谷口雅春先生が遺された<奇蹟の聖経『甘露の法雨』>には私たち個人個人の”病・悩・苦”を救う力があり、更に”国家”自体をも救う力があるのであります。‥‥「生長の家立教の使命」のために必要な今まで創造の根元世界の最深奥部に秘められていた霊的真理哲学体系の全相を、全人類の中から只1人の人・谷口雅春先生が選ばれまして、釈迦・キリストを超える完成の教えとして啓示されたということであります。



 と、学者は無用の長物と言わんばかりに好き放題言っていますが、哲学と宗教は医学と民間療法の関係にも喩えられると思います。社会がまだ高度に発達していなかった時代ならともかく現代の先進国で医学や哲学思想を民間で広めないといけない理由が思いつかないのです。谷口の主張するように、あらゆる病気を治すことができる唯一無比最高の医学療法を発見した、つまり自分は人類史上最高の医学者であると思ったなら、どういう行動をとるでしょうか。まず医学界に正しさを認めてもらおうとするでしょう。

 また彼が主張するように宇宙最高の思想であり全人類を救うものであるというのなら 哲学界等思想界でも認められようと考えるはずであり、認められれば 全世界の教育機関で教えられ、子供の頃からその思想を教育すれば、全ての人間が神の如き存在になり、病気や争いといった不幸がこの世界から一掃され、彼らの主張する『地上天国』とやらが到来するではないでしょうか。

 仮に、ある犯罪行為に関して嫌疑をかけられている人がいるとします。自らの身の潔白を証明したいなら、裁判で決着を付けようとするでしょう。それをせず、事情を何も知らない人々に自らの身の潔白を説いて回り、「私の主張は正しいだろう?この私を罪人呼ばわりする人達の方が間違っているだろう? 私の身の潔白を人々に訴えよ。」と言ったりするでしょうか? やましいところがあると思われても仕方のない行動ではないでしょうか? 偏見あるいは何らかの利害関係から不当な扱いをアカデミズムから受けたなら、それを社会に告発する運動を起こすというのなら分かるのです。




「‥‥自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか。‥‥今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみ踠がきあせっている。あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。方向を過っていはしないか。探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。」(「生長の家」出現の精神、神誌『生長の家』創刊号、昭和5年3月1日発行)

○聖経『甘露の法雨』は素晴らしいお経である。小さくは個人の病いを癒し、大きくは国家の大病、世界の大病をも癒すことができるのである。

○私には全人類が一切の病・悩・苦から開放されて光明化生活を送れる日が来るまで休日というものは無い。自分は何も要らぬがただ時間だけが欲しい。

○どうしたら全人類が速やかに光明化されるかということばかりを寝ても覚めても考えている。日本の現状を想うと夜も充分眠れぬ。

○私は哲学者としては、カント、フィヒテ、ヘーゲルに並べられても差し支えないところの哲学界に功績を残したとは思っている。


 哲学の世界では谷口雅春という哲学者など聞いたこともないのですが、医学界ではいかがでしょうか? これほど救世の情熱に燃えながらも、学会に論文を提出する等、アカデミズムに認めてもらおうという行動だけはしなかったようです。言うまでもなく笑い者になって「大聖師」と崇め奉られる教祖様の地位から一気に転落してしまうことを谷口自身がよく解っていたからです。
 
 


 信者を布教に駆り立てる論理もまた極めて巧妙です。

《 人間は嬰児としてこの世に生まれて来た時、既に人類の想念の中に置かれるのであります。その想念を嬰児といえども感受しないというわけには行かないのであります。そこで嬰児も病気にかかるのであります。嬰児のみならず成人も、如何に自主独立の精神を持っていると自称するものも、やはり人類の想念の中に生きているものであるから、多少とも人類全体の想念の影響を受けないということは難しいのであります。
 
 だから吾々といえども常に毅然とした自主的自覚をもって「人間は神の子、無限に円満完全である。如何なる病気にも、一切の欠乏にも悩まされることはないのである」という想念を常に強固に把持して、その反対の精神波動の影響を拒否することが必要なのであります。そうでなくして、うっかり人類全体の想念の傾向に同調していたら、知らず識らずの中に病気に侵されるに到るのであります。だから、吾々は病気になるのに手間暇はかからない、ただうかうかと人類全体の病念と一緒に漂わされていたら病気に罹れるのであります。
 それに反して、常に人類の病的精神波動を感受しないようにするためには、正しき健康の想念を把持することが必要であり、その思想的根拠ある所の正しき哲学に対する理解が完全であることを必要とするのであります。何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界ならしむる根本となるのであります。 著書『神癒への道』より 》

 「物質肉体、物質世界が実在する」という人類共通の迷妄想念は大多数であるがゆえ強大なものであるのでこの世界から病気、争いといった不幸がいつまでも無くならない。生長の家の信仰のみが人間が本来の「神の子」という実相、物質は存在しないという実相を現わすことができる、つまりこの世界に様々な不幸が実在するという迷妄から覚まさせることができる唯一最高の真理であり、そのためには生長の家の教えを1人でも多くの人に信じさせ、迷妄想念を弱めなければならない、という論理なのです。


そしてこの論理をを国家観・世界観に適用し、「天皇信仰」に繋がっていきます。

「日本の国の実相顕現こそ真の宗教心」(『理想世界』昭和34年11月号)

 政権行使の実力者が、織田、豊臣、徳川・・・・という風に変わり、又大戦後においてはその実力者がマッカーサー元帥という風に変わりましても国民統合の「中心」として厳然として変わることなく、歴代連綿として不変に続き給うのが日本天皇なのであります。こういう「国家の良心」たる「鏡的存在」が国家統合の「精神的中核体」として万世不変に連綿として続いている国家は日本国家のみなのであります。
 
 一切の存在にはすべて、それを統合する中心に位する変わらざる中核者があることが宇宙の真理であります。(原子には原子核、細胞には細胞核、太陽系には太陽という中心、樹木には幹という中心があり、その中心が破壊すれば全体が死滅する)だから私達は日本国家を神意の発現する「真理国家」と認めざるを得ないのであります。真理とは「神が宇宙を秩序的に統一するための秩序的法則又は統一原理であります。」換言すれば神の御心であります。
 
 神は「宇宙」という、大きな〝骨格〟や〝卵の殻〟みたいな〝輪郭〟だけを動かされるのではなく、宇宙の中にある一切のものを、どんな微小なものをも、この秩序的法則によって、全体的統一をあらしめておられるのであります。だから〝国家〟の問題や人類の問題はもちろん、肉体の1個の細胞の中までも、神の叡智によるその統一原理は行き渡っているのであります。全てのものに、不変に続く統一原理なる中心は、万物にはただ1つあるのが原則であるのに、地球世界だけは諸国家の中心者が実力によって始終交代し、実力者の個人的恣意で相争い多数国家がばらばらに分かれて、ただ1つの連綿たる中核統一体がないのは、地上世界がまだ未完成であって、完成の途上にあるためだということができるでしょう。 
 
 かかる諸国家の中において、政権担当の実力者が変わるとも、連綿として万世不変の「国家の良心」ともいうべき中心者たる天皇を有する国家は、最も完全に神の御心を地上に実現した国家だということができるのであります。世界にもし、このような〝天皇国家〟がなくなるならば、神の御心の現れた国が全然地上から姿を消すことになるのであります。そういう真理を如実に体現した国家――神の御心が最も完全に現れた国家を護持することは、神の御心にかなうところの行為であり、最も高き宗教心の現れだと認め得るのであります。
 
 宗教心とは、自分だけが極楽浄土へ行くために「南無阿弥陀仏」と唱えることだけではないのであります。むしろ、そのような自分だけが救われたいための宗教は、利己心養成の宗教であって、原始的低級宗教であります。私たちは、神意が地上世界に成就して地上に天国が成就するように、世界に唯一の「国家の良心」ともいうべき万世不変の中心を有する真理国家たる日本国家を護り育てて、全世界を永久平和の理想国家たらしめるための種子国家たらしめ、この神聖なる日本国の実相を顕し、ひいては全世界に地上天国をもたらすために協力する愛国の実践が宗教的実践であると考えるのであります。
         …(略)…
『御心の天の成るが如く地にも成らせたまえ』とイエス・キリストが祈ったところの、その理想的天国世界を実現する、その使命を持っているのが皆さんであると私は思うのであります。この生長の家の『生命の実相』の哲学によって養われたところのその学徒でなければ本当に日本国を救うことはできないし、又、世界全体を救うこともできないと思うのであります。」
 

《 生長の家系の天皇制右翼「反憲学連」が11月に入って教養部に登場し活動を活発化させている。 彼らは「反共・反安保・憲法9条解体」をスローガンに、全国の大学で右翼学生運動の建設を目指して活動している。とりわけ日本大学文理学部では、80年11月の武装登場以来、テロ・リンチを用いて学園の恐怖支配を行っている。「戦後史研究会」を名乗ってビラを配っていた彼らは、11月5日「真の戦没者慰霊を考える」を銘打って学内でシンポジウムを開催しようとしたが、急遽集まった学友の抗議の前にこれは断念せざるを得なかった。
 
さらに11月25日、「三島由紀夫森田必勝憂国忌」ということで学内で集会をやろうと昼休みに登場し、多くの学友の目の前で、抗議する1人の学友に暴行を加えケガを負わせた。 彼らの主張は民族排外主義に貫かれたものであり、「大東亜戦争は聖なる戦いであった」「朝鮮人は天皇のために喜んで死んでいった」と侵略、虐殺行為を正当化し賛美するものである。 このところ原理研と並んで反憲学連(生長の家)が各地の大学で活動を活発化させている。恐ろしい時代になったものだね。 》    

           九州大学新聞(83年11月25日付)より





 生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。
「‥‥生長の家の右翼的な主張や活動を実際に行っていた信者を見て、私は正しい宗教の持つ愛と献身の精神など彼らから微塵も感じることはできませんでした。生長の家の右翼学生の姿を実際に見たことも生長の家が邪教であると確信した理由の1つです。」
 
 



 昭和59年、熊本大学に入学した私は学内でアンケート勧誘をしていた「日本文化研究会」なるサークルに入部しました。そこの部長を務めていたのがA君でした。A君は活動の内容をあまり説明しませんでしたが、その時はあまり疑問にも思わず、その名の通り日本の歴史や文化を学ぶサークルなのかなという軽い気持ちでした。「例会」なる勉強会が中心なのですが、天皇とか神風特攻隊の犠牲的な精神、あるいは明治維新の志士とかの内容が中心であり、宗教団体であるとは気付かせないような内容にしていたようです。部室には生長の家の書籍が揃えられており、しばらくするとA君は、生長の家の本を読むことをさも当然のように勧めてきました。
 
 哲学や宗教に興味のあった私には、興味深い内容もあったのですが、「話が出来過ぎている、論理のトリックで丸め込もうとしている、こんな教えを実行できる人間などいるのだろうか」と思い、信じる気にはなれませんでした。狂信的に信じているA君を始め他の部員も教えを実行できているようには思えなかったことも疑念を抱いた理由でした。 
 例えば、彼は、私が少し批判めいたことを述べると、「今まで一緒にやってきたではないか」と虫のいい事を言い(辞めなかったのはダミーサークルであることを隠していたからであるのに)、教義について正しいと思わないと思う旨を述べると「間違ってる言うんか!」怒ったりもしました。

 数ヶ月経った頃、A君に「(このサークルは)勉強会ではないんだろう?」と尋ねたことがありました。「勉強会じゃないよ。お前はいつまでもその段階に留まっているではないか!」となじったのです。この期に及んでもサークルの目的は言わず、自分が信じている宗教を受け入れて布教活動(彼が意図していたのは反憲学連としての活動の方でしょう)に加わろうと思わないお前は劣った人間だ、と逆に非難したのです。(最後までサークルの目的は明かしませんでした。)まともな誠実さを持つ人間なら、カムフラージュしたサークルだ。今まで申し訳なかった、となるところでしょう。反憲学連と判れば辞められてしまうかも知れない。それは黙っておいて、信じてくれれば儲けもの、だめなら、はい、さようなら、といったところだったのでしょう。彼は最後まで宗教を勧誘するための偽装サークルであるとは認めませんでした。

 生長の家本部からの連絡書をたまたま見て、自分以外の部員が皆、生長の家の信者であることを知り、そのことをある部員に話したところ「誰から聞いたのか!」とかなりの剣幕で詰問されたことがありましたので、宗教団体であることは教義を信じるようになるまでは明かさない方針であったことは間違いないようです。
 
 数年前、教祖による女性信者への強姦が問題化した韓国のカルト宗教団体「摂理」は、スポーツや文化系サークルを装って学生に近付き、濃密な人間関係を築き辞めにくくさせ、徐々に教義を教え込むという手口だったそうですし、統一教会は、街頭で勧誘しビデオセンターに連れて行き最初は娯楽ビデオ、徐々に教義のビデオを見せ週末に泊り込みの洗脳合宿に誘うという手口でした。教義を信じるようになるまでは宗教団体としての正体を隠すというのはカルト宗教に共通した手口のようです。
A君に入信を執拗に誘われましたが、拒否し半年ほどで辞めました。

 傑作なエピソードがあります。大学の近くに暴力団があるのですが、ある日、そこの2人組のチンピラにA君が大学内で因縁を付けられ恐喝されたことがありました。自転車を盗まれ見付けたら殴ってやろうと思っていたので、その悪い想念の報いとしてそういう目に遭った、と話していましたが、本当にそう思っていたのではないでしょう。帰ってから「人間神の子。彼らもまたそうである。許すべきである。」と祈った、でも戦おうと思えばできた、と強がっていましたが、暴力団員が喧嘩が弱い訳がなく、まして相手は2人で戦闘態勢であり武器を持っている可能性もあります。かなりの格闘技の心得がなければ勝ち目がないこと位分からない筈がないのです。
 こういう嘘さえつかなければ実行できないような教えなのです。哀れさえ感じます。A君の話は到底信じられませんでしたが、普段反省などするようには思えない彼でも、他人に押し付けるからには、自ら教えを守らなければならないということだけは理解していたようです。

 以上述べたA君の姿勢も生長の家の教えからすれば当然に思えます。「自らは神の子」と増長しますが「他人も神の子」と他人を同等に尊重するわけでは決してないのです。観念的に理解することと実際に行動に現わすことは明らかに別なのです。人間は現在の人格以下の行動も取れないのと同じく人格以上の行動も決して取れないからです。

 


生長の家の掲示板にも次のような批判がありました。

・宗教に入信してただ本を読んだだけでは、人間の人格は決して向上しない。 宗教に関わって、真理と称される受け売りを偉そうに垂れ流し、周りの人々を不愉快な気分に、ひいては宗教不信させている未熟な人格の愚劣漢のいかに多いことか。

「人類光明化運動」なんて聞くと、使命感に燃えてしまい、その担い手になることは価値あることだと錯覚し、自分の意識レベルが上だとこれまた誤解する。こうして傲慢さが知らず知らずの内に身に付いてしまう。



・私は別に生長の家の教えのことを「自分だけが神の子だという教えだ」とは言っていない。「他人も神の子だ」と説いていることはもちろん承知している。その上で批判しているのだ。だからこそ他人の欠点にやたら目が行くのだろう。「あの人は私と違って神の子の自覚を得ていない。だからあんな風なんだ」と見下す。
 
 他人の世話をする前に自分の欠点を直せ。いくら神想観やったって「自分のこういう欠点が改まりますように」なんて祈ったことないだろう、あるはずがない。生長の家からはそういう教えが全く欠落しているから。念じるのは「自分は神の子だから完璧だ」という自己暗示。こんな信仰やってて傲慢な人間にならない方が不思議だ。


・私の小さい頃 町のドンがいてそいつが生長の家だった。町内会の人達は信じていないけど、怖がって生長の家の集まりに出ていたようだ。うちは引っ越したばかりだし、信じるつもりないから断ったら、私の家を村八分にし、私と妹をいじめの対象にしていじめ続けた。

・人間の努力や積み重ねを根底から否定し、お仕着せの真理を吹聴する宗教ヤクザ・生長の家の1日も早い崩壊と幹部クラスの逮捕を強く望みます。






 「吾々の外部に見える生活というものは、全て自分の心の影である。『実相世界』には善しか存在しないのであるから、もし自分の周囲に悪い事があるように見えても、それは自らがまだ「神の子」としての実相を現わせずに心の持ち方が悪いのであって、それが相手に反映しているのだと思って、自分自身を振り返らねばならない。他人が悪いと思っても、それはきっと自分が悪いのである。 」という教えを説いているのですが.....。他の人が皆そうなってくれれば確かに自分は「地上天国」にいるかのようになりますよね、あくまでも“他の人”がですけどね。

 彼等が信じているように本当に生長の家の教えが人間の「神の子」としての「実相」を現わし地上天国をもたらすものであるならば、私が疑義を唱えた際、怒ったりせず、「どこが納得できないのか? それはこうだから正しいのではないか?」ときちんと説明する筈ですし、また教えを押し付けずとも、接する人達が「この人達は他の人達とは人格レベルが全然違う。生長の家という宗教を信じている人達なのか。どれどれ、どんな教えなのか、なるほど、こんな素晴らしい思想を学んでいるからなのか。自分も学んでみよう。」となると思うのです。
 
 宗教の布教に熱心な人達の熱心さを善意であると好意的に捉える向きもあるようですが、そうではないです。確かに社会を良くしたいという動機があることは否定しませんが、それはその人の人格、精神性の高さと同等のものであるはずであり、聖人君子の集団でもない彼等が人々を救いたいという情熱だけでそれほど熱心になれるわけがないのです。

 『驚異と占有―新世界の驚き』という本を読まれたことがあるかもしれませんが、これは新大陸を発見したコロンブスの驚きは、なぜ必然的にその「土地の占有」と結びつくのかという、植民地化への心理機構を分析した内容なのですが、世界を席捲し支配するのは、富への欲望だけではなく、世界を自らと同じ信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心がエネルギー源である、思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう、という分析を著者は行っていますが、その通りであると思います。
 
 特段、精神性が高くもないのに、つまり自らが実行できもしない教えを「あなたを幸福にしたいのだ。」と他人に押し付けようとする熱心さにこれで説明がつきます。自らの思想を他人にも信じさせたいという「獰猛な欲望」に動かされているだけなのですが、自らは、正しい思想を広めている、人々を救う崇高な生き方をしているレベルの高い人間なのだ、と思い込んでいるので手に負えないのです。宗教が人類の歴史において対立と流血をもたらしてきたのも頷けます。

 今度A君にお会いになったら「なぜ私達には『多くの人が生長の家を信じないからこの世界から病気が無くならないんだ。生長の家の本を読めよ。何だと!間違ってる言うんか? お前は程度が低いからこの真理を理解して布教するという崇高な生き方ができないのだ。病に苦しむ人々を救おうと思わないのか?』と言わないのか? 患者に対しては『病気など本当は存在しないのだ。生長の家の信仰をすればすぐ治るのだ。』となぜ言わないのか?」と是非尋ねてみて下さい。

それにしてもA君がオウムでなくてよかったですね。もしそうだったら皆さんも、もしかしたら今頃はこの世にいないかもしれません。