人生は、究極の「自分探し」の旅なのかもしれない。しかし、旅の途中でいつしか「存在の本質(意味)」に背を向け、瑣末な日常に埋没して生きる人々が大半ではないか。「自分探し」の旅は、「幸福探し」の道程でもあるのだ。この世に生を受けた意味を深く考えた時に、「幸福とは何か?」の答えを手にするのだと思う。怠惰な日常から一歩前に踏み出した時に、私達は新しい自分を発見できるのだ。
この映画の主人公・クリスは、両親の欺瞞性や腐敗した現代社会に疑問を抱き、大学卒業後にアラスカの荒野を目指す。自分自身と真摯に向き合うために、過酷な環境が必要だったのだろう。退路を断つために、途中で車を乗り捨て、手にしていた紙幣も燃やす。バックパックを背負い、「自分探し」の旅が始まる。
お金や出世に関心がなく、旅の途中で出会う人々に癒しを与え、ひたすら荒野を目指すクリスの姿は、まるでキリストを彷彿させる。クリスは愛称で、本名はクリストファーと言うのだが、少年に姿を変えたキリストを背負って、川向こうまで運んだとされる、半伝説的な殉教者(クリストフォロス)の英語形なのだ。キリスト教の精神を担うことの高貴さを表す名称だという。
アラスカの荒野を目指したクリスだが、キリストもまた荒野で修行している。新約聖書に書かれているのだが、40日間の断食を終えて空腹になったキリストの前に、悪魔が現れる。悪魔の誘惑を退けた後、彼は宣教の旅を始めたという。
旅の途上で、クリスも様々な悪魔?の誘惑を受けるのだ。16歳の女の子からの性的な誘惑を断ったり、麻薬常習者がたむろするヌーディストグループにも加わらず、ストイックな生き方を貫くのだ。アラスカの荒野に着いて数ヵ月後、狩りをしても獲物が見つからず、何日間も断食状態が続く。ある日、空腹を満たすために「ワイルド・ポテトの根」を食べて飢えを凌ぐのだが、それは葉形が似た毒性のある別の植物だったのだ。
その後、ヘラジカ狩りの猟師によって彼は遺体となって発見される。死因は餓死だった。彼を題材にした「荒野へ」という作品は全米ベストセラー・ノンフィクションに選ばれ、この映画もアカデミー賞にノミネートされた。それぞれの作品から、多くの人々が勇気と希望をもらったと思えば、キリスト教の精神である「自己犠牲」を担った死だったのかもしれない。
彼が読んでいた本の行間に「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」というメモがあったという。彼は「自分探し」の旅を完結させて、別の新たな旅に向かったのだろうか?