昨日1月17日は、阪神・淡路大震災の日でした。


実は私、あの日、神戸にいたのです。


神戸の大学に通っていた私は、当時大学4年生。

神戸市須磨区に住んでいました。


あの日、まだ外は真っ暗な中、ドドドドーン、っという凄い音で目を覚ましました。


停電したため、ビデオの時計が5時46分で止まっていたのを覚えています。


あまりの爆音に、地震ではなく、何か爆弾でも落ちたのかと錯覚しました。


私は古い下宿に住んでおりましたので、すぐに廊下に飛び出しました。


女子大生が10人くらいおりましたので、2階の廊下に集まって、体育座りをして、みんなで明るくなるまで震えていました。


勇気のある友達が、部屋に戻り、靴下とテレホンカードを取って来てくれたので、廊下にあった公衆電話で、自宅に電話をかけました。


6時頃でしたので、母はまだ寝ていたらしく、当然、地震のニュースも知らず、「何の話?」といった感じでしたが、とにかく無事であることだけ伝えました。


その後、電話は全く繋がらなくなり、ニュースを見た母は大変驚いたそうです。


余震は続いておりましたが、明るくなってから、私達はそれぞれの部屋に戻りました。


部屋の中はグチャグチャ。

枕のすぐ横に、棚の上に置いてあった木製のメイクボックスが落ちているのを見て、ゾッとしました。


暫くすると電気が回復したので、テレビをつけた私は、ニュースの映像に驚愕しました。


隣町まで燃え広がる火事のニュースだけでも怖いのに、頭の上は、次々にやってくるヘリコプターの騒音。

鳴り止まないサイレンの音。

町中に充満するガスの匂い。


近くに住んでいた友達は、電気もガスも水道も止まってしまったので、大学に避難したそうなのですが、やはりそこも同じ状態。


彼女が泣いていたので、とにかくうちに来るように言いました。

なぜかうちは、電気もガスも水道も大丈夫でした。


でも、度重なる余震で、その日は一睡も出来ず。


翌日、私は山口県の自宅に帰る決意をしました。


大家さんには、危ないから止めるように反対されましたが、この状況に、私は耐えられませんでした。


同郷の友達と2人、帰宅する計画を立てていたら、富山と新潟出身の友達が、「大阪側に出る交通手段がないから、自分達は実家に帰れない。」と言うので、一緒に山口に帰ることにしました。


山口まで行けば、福岡空港を使って、富山や新潟に帰ることが出来るからです。


近所のスーパーは大変な騒ぎになっており、食料の確保をすることは無理と判断。

私達はお米を炊いておむすびを作り、お弁当と水筒を持って出発しました。

大家さんと後輩達が、心配そうな顔で見送ってくれました。


須磨駅の近くで飲食店を経営していた大家さんが、海岸側は壊滅状態だと言うので、山側を迂回して、西へ向かうことにしました。


今のようにスマホで何でも調べられるわけではありませんから、知らない道を、道路標示だけを頼りに歩きました。

4人だったからなのか、緊張でハイになっていたのかはわかりませんが、焦燥感は全くありませんでした。


車はあまり走っておらず、歩いている人がほとんど。

どこか外国の町のような光景でした。

自動販売機はどれも売り切れ。

山で湧き水を汲んでいる家族も見かけました。


結局、5時間くらい歩いて、明石まで出ました。

あまり細かいことは覚えていませんが、明石まで来ると、公共交通機関が動いていたので、なんとか西明石駅に到着。


心配した友達のお父さんが、車で迎えに来る途中だったので、岡山駅で新幹線を降りて合流。

そこからは、車で自宅まで送ってもらいました。


翌日、富山の友達を福岡空港まで見送りに行きました。

ゆっくりしていくように言ったのですが、少しでも早く自宅に帰りたいと彼女は言いました。


後日、彼女のお父様から、筆で書かれた、それはそれはご丁寧なお礼の手紙が届いたのを記憶しています。



その後、大学は、自衛隊と避難した方々が使われていたため、お休みに。

私は卒業式まで神戸には戻りませんでした。


卒論も単位数も関係なく、その年は全員卒業になりました。

後輩達は、夏休みにしっかり補習授業があったようですが。


卒業式の後、恒例の、ホテルでの派手な謝恩会は自粛。

校内の食堂で、簡素な食事会をしました。

晴れ着もなし。

勿論、卒業旅行なんて考えられませんでした。


久しぶりに会った私達は、ただただお喋りをしました。


友達の中には、震災の日に顔に酷い怪我をし、近所の病院に駆け込んだものの、全く相手にしてもらえなかったという子もいました。

テレビのニュースで何度も映像が流れていた病院でした。

大変な状況だったのでしょう。


せっかく内定の出ていた会社が、潰れてしまった子もいました。



数日後、お引っ越し。

引っ越し業者の手配など出来るわけもなく、父と叔父が、グチャグチャな道路を車2台で迎えに来てくれました。



これが、私の震災の記憶です。



あれから29年。

私は一度も神戸に行っていません。

あんなに好きだった神戸でしたが、暫くはトラウマで、怖くて近づけませんでした。


あの日、お世話になった友達のお父さんも、父も叔父も、みんな亡くなってしまいました。


いろんな方に助けていただいて、今の私はあるのだなぁと思います。



今、苦しんでおられる石川の方々のご苦労を思うと、胸が痛みます。


一日も早く、通常の生活に戻られることをお祈りしております。



それから、最後に。


神戸はとても素敵な街です。✨

私も久しぶりに行きたいです。





本日の五郎ちゃん。

エアコンのリモコンが最近のお気に入り。


日向ぼっこ。


気持ちよさそう。🎵