近いうちに行きたい城の筆頭格だった岐阜県垂井町の菩提山城に初登城、言わずと知れた“竹中半兵衛重治の居城”だった城です。

 この人は有名な割に文書などの記録に乏しい“謎の人”でもあり、もしかしたら『太閤記』や『武功夜話』などのノンフィクションの世界で創られたヒーローでは? との疑念も否めません。

半兵衛さんが造った“物証”を見て廻り、その辺の実像に迫ってみます。

 

 

美濃の城  菩提山城  登城日:2022.11.19

 

 

 城郭構造     梯郭式山城
 標高/比高  401m/335m
 築城主      岩手氏
 築城年      天文年間(1540頃)
 主な城主     岩手氏、竹中氏
 廃城年        慶長5年(1600)
 遺構           曲輪、竪堀、横堀、土塁
 指定文化財  垂井町指定史跡
 再建造物     なし
 所在地        岐阜県不破郡垂井町岩手

 

 

 竹中半兵衛重治は黒田官兵衛孝高とともに“秀吉の両兵衛”と言われ、軍師として天下統一に導いた真の功臣…というのが多くの現代人の認識でしょう。

しかし、信長や秀吉にどう評価されていたのかはよく判っていません。

 まず、後を継いだ子の重門に受け継がれた知行高が僅か5千石…という史実が状況証拠として有ります。

 そしてもう一つ、物的証拠として遺るのがこの菩提山城ですね。

地取りや縄張りの基本は父親の竹中重元の作でしょうが、城は常に強化改修して行くものですから、半兵衛さんの意思は多分に入っている筈です。

 

最初に訪れたのは竹中氏陣屋跡(現:岩手小学校) 江戸時代の旗本竹中氏の拠点で、半兵衛さんの銅像が迎えてくれます

 

陣屋から見える菩提山城本丸 望遠効果で近く見えますが比高は300mあります(^^;) 隣りにある公民館で散策マップなど資料が貰えます

 

登城ルートは4つ有る様で菩提口を奨められましたが、長年のコダワリで大手道から行きます

*この写真は下山後に撮ったものです

 

 

 竹中重治は天文13年(1544)に生まれました。

竹中氏は美濃守護:土岐氏の被官で、父の重元は美濃大野郡の大御堂城の城主でした。

 土岐頼芸が天文21年(1552)、斎藤道三に追放されると道三に従属し、弘治4年(1556)に道三と子の義龍の間で行なわれた“長良川の戦”でも道三に味方して敗軍となっています。

 この時に12歳になっていた重治は、大御堂城の留守を守っていましたが、攻め寄せた義龍の軍を相手に初陣し、撃退したそうです。

 敗戦とはなったものの、その後の竹中氏は義龍の傘下で存続していますから、臣従を条件にお構い無しだった様ですね。

 

 2年後の永禄元年(1558)、重元と重治は不破郡岩手の岩手氏を攻めて所領を奪取し、岩手に移って竹中氏の新たな本拠としました。

 戦いの理由は判りませんが、重元の父の重氏はその岩手氏から竹中氏に婿入りした人なので、近江浅井氏の影響のほか、岩手氏内の内訌…という見方も出来ますね。

 

大手の登城口にある禅幢寺に移動して駐車  ここは竹中氏の菩提寺です

 

登る前に竹中氏の墓所で半兵衛さんの墓参り 無礼の赦しを得ます(^^;

 

半兵衛さんと父:重元さんの墓(右)はお霊屋風になっています 中間の小さな石塔は室の得月院ですね

 

さて登って行きます。 最初に現れる八幡神社の下を左折

 

すぐにある“表御門”は自然界への入口です

 

斜度はけっこう急ですが、道はよく踏み込まれていて歩きやすい 人気の城ですからね

 

尾根に出たら緩斜面 このメリハリが有ると歩きやすいですね(比高は稼げないが…)

 

 

 竹中氏の得た領地は6千貫(約1万2千石)で、これがその後の資力となる訳ですが、重元は岩手氏の砦を改修して居城(詰め城)としました。 それがこの菩提山城です。

 

 永禄3年(1560)頃から竹中氏は六角義治の要請で近江に出陣し、浅井氏と戦っています(野良田の戦か?)。

斎藤氏からの援軍の一員かと思いますが、六角氏が斎藤氏と同盟するのはこの後の事なので、国境の氏族らしく独自のパイプを持つ強かさが有ったとしても不思議では有りませんね。

 

 永禄5年(1562)に竹中重元は63歳で病没し、家督を嫡男の重治(18歳)が継ぎました。

重治の妻は西美濃三人衆のひとり安藤守就の娘であり、この頃に嫁したものと思われます。

 

尾根から斜面に変わる場所の土橋 でも、まだ城内ではありません

 

急坂を登り詰めた所に虎口風の地形! でも、まだまだ城外でした

 

ヒノキの樹林が拓けてモノレールが現れました もう着いた?

 

いえいえ、送電線工事の為の伐採みたいです 300mは甘くない

 

この先で菩提口からの登城路と合流 結局遺構は何もないので、菩提口からがオススメですね(^^;

 

あともう少しですが、雨水に削られて木の根が露出した急坂は最大の難所です

 

大汗をかいて上着を脱ぐ頃にやっと、城址入口の堀切に到着です

 

 

 2年後の永禄7年(1564)2月、重治は舅の守就とともに稲葉山城に乗り込み、城を占拠する事件を起こします。

背景には斎藤義龍の跡を継いだ龍興が旧道三派だった西美濃衆を蔑ろにした為ですが、この事件の顛末は違う形で脚色され、現在に伝わっていますね。

 

 重治達は8月には城を退去し龍興の手に戻していますが、逆に重治の菩提山城が龍興に攻められた事は無く、今回もお構い無しでした。

 これは、安藤氏もまた同じで、尾張の織田信長からの圧力を考えると、西美濃の不平分子達を討伐する余力が斎藤氏に無かった故の事と思います。

 

 こう見て来ると、長良川の戦以来、西美濃三人衆の自治権は相当に強く、寄親の安藤氏と寄子の竹中氏という構図が見える気がします。

斎藤飛騨守の小便事件は話を面白くするネタであり、退城後の隠棲も劉備の“三顧の礼”に誘う脚色ですね。

 

きれいなV字形を残した竪堀 針葉樹林に守られるのが一番荒れないみたいですね

 

麓から見えてた本丸の切岸が至近に現れました(^^♪

 

大手虎口を守る“大手曲輪”

 

背後には二の曲輪の土塁が聳えます

 

土塁下を進んで行くと見えて来る虎口 その手前に竪堀です

 

この竪堀も明瞭に遺っています

 

虎口を入ると、“台所曲輪”の平場 本丸の手前で、全ての人やモノが一旦ここに集まる訳です

 

 

 永禄10年(1567)、安藤守就ら西美濃三人衆は織田信長に内応して臣従し、稲葉山城は落城し、斎藤氏は滅びました。

 信長への臣従を嫌った重治は岩手を離れて近江に移り、浅井長政の客分として3千貫を給されたという事になっていますが、時を同じくして織田氏と浅井氏は同盟を結び、お市の方が長政に嫁いでいます。

 

 重治に給された領地(東浅井郡草野)は小谷にも近く、浅井氏の内情に詳しい重治がお市の方の付人として、当面の間浅井氏に派遣されていた…と見る事は出来ないでしょうか?

そうでなければ、1年で岩手に戻り振り出しとなった重治が、ゼロから信長の直臣として家臣団を率いてすぐに活動する事など不可能でしょう。

岩手の領地・家臣団はそのままに赴任していたと見るのが妥当だと思うのです。

 

 

本丸の壇上にある案内看板 見やすい縄張り図です

 

本丸の段は広く削平されていて、複雑な空堀で二分されています

 

大手口を見下ろす“二の曲輪”は防衛機能で…

 

奥の“本曲輪”が居住機能でしょうね

 

本曲輪からの眺望はさすがに良く、麓の岩手の郷が一望です

 

遠くに稲葉山城(岐阜城)が視認でき…

 

大垣城もこの中に有るでしょう

 

明日が雨の予報なので、名古屋のビル群はシルエットだけ

 

思っていた以上に見所が多そうな城址だったので…

《後編》につづく