次に向かったの米原市の鎌刃城です。

続100名城の有名な城ですが、なぜか後回しになっていて、今回が初登城でした。

 

 まず訪ねたのは城下となる中山道沿いの番場にある『番場資料館』、ここで縄張り図などの資料を入手がてら、登城路の選択の為のオススメなど聴き出したい…という思惑でした。

 

鎌刃城は八葉山(601m)の支峰:竜宮山の北に流れる尾根の中腹に築かれた“尾根城”です

 

中山道番場宿の家並み 現在は幹線道路から外れているので、車も人通りも少なく静かです

 

番場資料館に着きましたが…本日休館です どうも開館日は土日だけみたいですね(^^;

 

少し離れた、続百名城スタンプ設置場所の『喫茶:源右衛門』さんに行って見ると…

 

パンフのBOXが有りました♪ なんとかMAPゲットです(協力金100円は必ず入れましょう)

 

登城路は5ルート有る様ですね

 

 

 仕方が無いので、先達ブロガーさんの情報を元に、“滝谷武奈林道”を使ってクルマで一気に城址の上まで登り、上から攻め下る事にします。

 

 

 

日本200名城 №156 鎌刃城 滋賀県 登城日:2022.10.14

 

 

 別名        蒲葉城
 城郭構造     連郭式山城
 天守構造     天守的な構造の大櫓?

 標高/比高   384m/250m
 築城主       土肥氏
 築城年       応仁の乱以前
 主な改修者   土肥氏、堀氏、浅井氏
 主な城主     土肥氏、堀氏、浅井氏
 廃城年       元亀5年(1574年)
 遺構        曲輪、土塁、堀切、石垣、枡形虎口、竪堀
 指定文化財   国の史跡

 所在地     滋賀県米原市番場

 

 

 鎌刃城築城に関する文書などの物証は、応仁の乱以前の堀氏が初出の様ですが、鎌倉期の地頭:土肥氏の頃にもう何らかの施設が有った様です。

 中山道を見下ろし見張れる上に遠くの眺望にも優れているので、監視所や烽火台が有ったとしても不思議ではないですね。

 文禄・弘安の元寇に際しては、鎌倉幕府の意向でそんな施設が置かれたかも知れません。

 

 土肥氏は相模の国人で有力御家人だった土肥實平から繋がる氏族(と思われる)で、室町期にも幕府奉公人として足利将軍の直臣だった様ですが、応仁の乱の頃には、領主は堀氏に代わっています。

室町将軍の権力の弱体化と新興勢力が台頭した時代背景を象徴していますね。

 

林道の入り口(名神米原IC付近)から見る鎌刃城 右の鉄塔辺りか…

 

林道を登って行くと右手に絶景が広がります

 

米原市街とその先に湖北の小谷山、山本山などが遠望できます

 

鎌刃城と同じ高さに登って来ましたが、遺構は何も見えません

 

舗装された林道から地道に分け入って200mほど走ると…

 

僅かな駐車スペースと登城口、案内看板があります

谷底の地道なのでぬかるんでいます 手前の舗装路帯にもスペースは有るので、泥汚れを気にする人は避けた方が賢明かも

 

 

 堀氏は京極系の国人だった様で、初めは坂田郡北庄堀(現:長浜市神照町)に住み“新庄氏”を名乗っていましたが、浅井氏に仕える頃には“堀氏”に改名しています。

 

 戦国期の坂田郡は典型的な係争地で、京極氏vs六角氏の主導権争い、次いで京極氏vs浅井氏の内訌、そして浅井氏vs六角氏の陣取り合戦、最後には浅井氏vs織田氏と合戦が続き、支配主がコロコロ変わった場所でした。

 その中で小領主の堀氏がどの様に寄り親をサーフィンして生き延びて行ったのか、この後に城址から何かのヒントが見付けられたら…と思います。

 

駐車場の先100mに“青龍の滝”が有るので寄って見ます 落差20mほどの小さな滝ですね

 

ついでの滝見物…ではなく、滝の落ち口には取水遺構が有る様で(よく判らなかったけど…)、鎌刃城の水の手だった様です。 滝が…?というと妙な感じですが、此処は城址より標高が高く、樋で新鮮な水を城内に引き込めた様ですね。

 

登城口に戻って看板確認 この場所は図の下の枠外になります

 

図の下から上に進んで行く(実際は尾根を下って行く)という見学ルートになりますね

 

こんな道を300m歩くと…

 

南の端の堀切に出ます 尾根の上から大軍が攻め込む様な環境ではないので、防備としては充分か

 

 

 鎌刃城の様な人里離れた高所にある山城が、領主と一族の日常の居城として使われる事は無く、より強大な外敵に攻められた場合に退避し、有利な地の利で徹底抗戦し滅亡を防ぐ“詰め城”と考えるべきでしょう。

多くの場合が居館は麓にあり、堀氏の場合、北麓の番場にある『番場城』がそれに充るのではないかと思われます。(今回は訪れていないので定かではありませんが…)

 

 では、鎌刃城がなぜこうも堅固に強力に整備されているのか?…と言えば、大勢力に攻め込まれる頻度が高く、戦乱の度に争奪戦が行なわれ、その帰趨が勝敗に大きく影響する“地域の要の城”だったからと思います。

 

縄張り図より まず南尾根を南Ⅱ郭まで縦走します

 

尾根上は上級者向きなんですね(^^; では、ロープを頼りに慎重に登って行きます

 

ちなみに、不安な人には尾根の東側にこんな道があります

 

南尾根は下り基調かと思いきや、けっこう登ります 絶妙な城域設定

 

尾根の上に登ると、やはり強烈に切り立った“馬の背”になっています  木が生えていないと、怖い斜度ですねこれは…(^^; 

 

南Ⅱ郭まで200m余りの尾根ですが、ご丁寧に7本の堀切が穿たれ仕切られています

 

 

 鎌刃城は別名で蒲葉城とも言いますが、“鎌の刃”も“蒲の葉”も細長いから、縄張り形状からの命名かと思いますが、この尾根で見る限り“立てた鎌の刃の上”に立っている感じですね。

 また、細い尾根に堀切が連続する様は、農家で多数の草刈り鎌を掛けておく、木材に櫛様に切り込みを入れたホルダーを思わせます。

当時は木に覆われていないので、普段は農夫の攻城兵にはそう見えたかも…などと思ってしまいました。

 

 

天然の竪堀 木が生えてても、これは怖ろしい(^^;

 

登りの手前に堀切り…は防御の鉄則ですね

 

細かく連続する堀切 “これでもか”と丁寧な仕事です

 

最後に大きな堀切があり、南Ⅱ郭の切岸です

 

ロープに縋って登って行くと、初めて曲輪らしい郭に着きました

 

この郭は尾根が分岐する要の郭ですから周囲を土塁が巻いていて厳重です。 特に南側(歩いて来た尾根筋)の土塁は高くて幅も広く、塁上には物見の井楼が有ったものと思われます

 

 

《後編》へとつづく