2月末にロシアのウクライナ侵攻があって、『えらい時代になったもんだ…』とあれこれ思いを巡らせていたら、ブログ更新もせぬまま、4月になってしまいました(^^;

 

 しかし、安保常任理事国が“核の脅威”を嵩にやりたい放題しても、加盟国から袋叩きにされないという“世界の掟:国連”のお粗末さには呆れるばかりですね。

某国の様に国連負担もなく、国際貢献もせず、迷惑ばかり掛けてる国が、核を持つだけで大きな態度と発言力を持つ訳ですから、人類は先軍政治の頃まで退化してしまった感さえします。

 

 日頃から戦国武将の戦略と決断に思いを馳せていますから、こうゆう事態でも各国の思惑と首脳の決断に眼が行ってしまいます。

議会制民主主義の危機と捉えた本家:イギリスの本気度と、それに歩調を合わせたスイス、スウェーデンの動きが目を引きますが、そんな中でも、この機を捉え180度の大転換を果たしたドイツが凄いですね。

 日本と同じく戦犯国の憂き目に敢えて甘んじていた国ですが、軍事強国へと舵を切った事は、周囲の疑念が期待へと変わる千載一遇の潮目を敏感に察知しての建前から本音への大転換であり、見事の一言です。

 これこそが政治力であり、地力のあるドイツは今後“頼れる国”として世界の信頼を得て、“脱戦犯国”を果たし、名実ともにEUと世界を牽引して行くんでしょうね。

 一方で、何が有っても一切の変化を望まず動かない極東の花畑国は……(-_-;)

 

 

 

遠江の城  横須賀城  登城日:2021.12.10

 

 

 別名        松尾城、両頭城
 城郭構造     平城

  標高/比高   25m/20m
 天守構造     詳細不明(3重4階:1578築)
 築城主       大須賀康高
 築城年         天正6年(1578)
 主な城主      大須賀氏、渡瀬氏、有馬氏、松平(能見)氏、本多氏、西尾氏
 廃城年         明治元年(1868)
 遺構            石垣、曲輪、水堀など
 指定文化財   国の史跡

 所在地     静岡県掛川市西大渕5379-1

 

 

 静岡の城めぐりの最後は、遠江の横須賀城です。

丸い河原石のみを使った珍しい石垣が特徴の城ですが、築城は意外と新しく、徳川家康が高天神城奪還戦に際して、その本拠として大須賀康高に命じて築かせました。

 

城址の西端にトイレと駐車場があるので、クルマを停めて南の正面口(大手ではない)に向かいます

 

案内看板 現存するのは主郭部分だけで二ノ丸、三ノ丸は失われています かつては遠州灘の入江に面した海城だった様です

 

正面から見る主郭の石垣 丸石で積まれているのはホント珍しい

 

石垣になっているのは南(街道)から見える面だけで、他は土塁なので、装飾的な意味合いが強そう

 

石材は大井川中流から採取したものらしく、調達の便でやむなく丸石にしたのか? 簡単に登れてしまい防御性は低そうです

 

丸石は崩れやすいのでは? …と思ったら、採取されたのは楕円の石で、隅部は算木に積まれています(ちょっと安心)

 

 

 大須賀康高は三河時代は酒井氏家臣の陪臣でしたが、三河一向一揆の後娘婿の榊原康政とともに酒井家を離れ、家康の直臣となります。

天正2年には高天神城主:小笠原信興の与力として入城し、武田勝頼との攻防戦を戦いますが、援軍の無い籠城戦を強いられた信興はやむなく勝頼に降ります。

 

 降伏開城後に勝頼から帰属の自由を許された康高は、家康への帰属を選択して浜松城へと退去しましたが、康高を高く評価した家康は、同時に戻ってきた渥美、阪部、久世ら在地豪族750人を康高の配下に付け、横須賀城築城と高天神城奪還の尖兵として再編成します。

『横須賀衆』と呼ばれる後の大須賀家臣団の誕生ですね。

 

本丸から見る南(遠州灘)方面 宝永4年(1707)の大地震の隆起で入江は消失し、海は2km先まで遠ざかりました

 

本丸には居館?の礎石も遺っています

 

その裏には槃築の天守台があり、大須賀康高により3層4階の天守が建てられました

 

本丸の西には地続きでひょうたん形に西ノ丸が広がり、その形状から“両頭城”とも呼ばれました

 

西ノ丸から西側へ下りて行くと、小曲輪の重なりがあり、戦国の城っぽい(^^)

 

振り返って見上げると…いい感じです

 

 

 天正9年の高天神城奪還戦で、徳川軍の主力となり奮戦した康高は戦功を賞されて、そのまま横須賀城城主として徳川家臣団の一軍の将となりました。

翌年の“天正壬午の乱”では、家康の先遣として曽根昌世、岡部正綱ら武田旧臣を伴って甲斐に入り、武田遺臣の調略に努めて徳川の甲斐支配体制を確立したと言います。

戦火に焼けた恵林寺などが家康により直ちに再建されたのは、康高の奔走の結果なのかも知れませんね。

 

 天正12年の“小牧・長久手の戦”では、岡崎に向かう羽柴軍を追い掛け、羽柴秀次の陣を襲って壊滅させたのも康高の戦功が大で、徳川の陣立てでは常に先鋒に配されるまでになりました。

 翌年、真田昌幸を攻めた“第一次上田合戦”で、翻弄され戦果の挙がらない徳川軍に業を煮やした家康が“それならば…”と井伊直政とともに後詰めに送ったのも大須賀康高でした。

(この時は秀吉の調停が入り、合戦には至りませんでした)

 

藩主の御殿だったと思われる二ノ丸方面は、完全に耕地&宅地化されています

 

北側の帯曲輪に回り込むと、高土塁がほぼ現存しています

 

土塁の麓には水堀の痕跡も

 

見上げる本丸は10m以上の高~い切岸でした

 

北の丸はグランドゴルフ場と化していて、真剣にプレイ中なので、向こうの松尾山まで気配を消して端っこを慎重に歩いて行きます(^^;

 

松尾山には正保城絵図の説明を読むと、今川時代に砦が有った様ですね

 

 

 この様に、四天王にも匹敵する戦功で家康に信頼された康高ですが、江戸時代の主要譜代大名に大須賀家の名は無く、現代に康高の活躍が語られる事も殆どありません。

 天正17年(1589)6月、康高は急な病を得て横須賀城で病没してしまいます。

康高に男子は有りませんでしたが、大須賀家の廃絶を惜しんだ家康は、榊原家に嫁していた娘の子(康政の嫡子)忠政に大須賀家を継がせる様に命じます。

(康政には他に忠長、康勝の2男があった)

 大須賀忠政は家康が関東に移封されると上総大多喜3万石が与えられ、関ヶ原の後は旧領の横須賀に6万石で移り厚遇されましたが、  慶長12年(1607)に27歳で病没してしまいます。

 

それを取り込んで東端の一郭としたのが横須賀城で、山上の東側(外側)には土塁が盛られ…

 

多聞櫓で固められていた様ですね

 

多聞櫓の礎石 気のせいか…ランダム過ぎる様な

 

その裏は広い堀切になっていて…

 

斜度も急で堅固ですね

 

 

 跡は嫡子の忠次が3歳で継いだので幼君ながら家は安泰でしたが、慶長19年(1614)、榊原康政の跡を継いだ康勝が嗣子の無いまま26歳で病没すると、四天王の功臣:榊原家の廃絶が確実になります。

 悩んだ家康は苦渋の選択をし、本来は榊原家嫡流の血統である大須賀忠次に榊原家の相続を命じ、大須賀家は廃絶(吸収合併)する事になりました。

共に功臣の家ですが、大須賀康高の死からは25年が過ぎており、その後の康政の活躍も勘案して榊原家を採った…という事なのでしょうね。

 

 しかし大須賀家の家臣にはこれに反発する者も多く、特に康高と苦楽を共にした“横須賀衆”には、榊原家(舘林藩)に移るより横須賀で帰農する道を選ぶ者が多かったそうです。

 横須賀城がある地(掛川市)の旧名は小笠郡大須賀町で、鎌倉時代に関東から三河に移った地縁の無い氏族の名を冠したのは、康高への思慕…と思われますが、合併と安易な地名変更の時流とともに、大須賀の名は無くなり、康高の記憶も薄れて行っている様です。

 

松尾山から正面口に戻ります

 

その途中にある三日月池は現存遺構で、当時の水の手か? そういえば井戸が無かったな

 

池の傍には十基の石仏が…

 

マジかな?これは(^^;

 

 

 横須賀城と藩は東海の要地でもある為、その後は譜代大名が目まぐるしく配されて、最後は西尾家(3万5千石)が8代繋いで明治を迎えますが、玉石垣を積んだのは寛永期(1624~44)の藩主だった井上正利と見られています。