【第二次長島一向一揆】
2年後の天正元年(1573)、足利義昭による『信長包囲網』の中で戦いに明け暮れていた信長でしたが、武田信玄が病死する幸運にも恵まれると、義昭の追い落としに成功し、余勢を駆って浅井、朝倉家を滅ぼして、畿内の大きな敵対勢力は本願寺のみとなっていました。
間髪入れずに二度目の長島攻略を目論んだ信長は、9月24日に3万の兵で岐阜を発ち、北伊勢の太田城に着陣します。
第二次長島一向一揆概要 企図した長島渡河はならず、北伊勢平定に留まりました。(物証の無い推測あり)
前回、兵船の備えを軽視した事に鑑み、今回は南伊勢の北畠信雄に、伊勢大湊(伊勢市)での船の徴発と回航を指示しています。
北伊勢を平定の後、桑名湊から一気に長島へ押し渡る作戦だった様ですね。
同時に畿内各所に散っている重臣達も桑名に集まる手筈で、総兵力は8万でした。
近江から侵攻し、一揆側に加担した国人の城を抜きながら(ほぼ無抵抗で降伏)東進していた、羽柴秀吉、丹羽長秀、佐久間信盛の隊は、26日には早くも西別所城に到達して、これも難なく落とします。
美濃から入った柴田勝家と桑名城の滝川一益は坂井城を攻め、これも10月6日には落城させました。
桑名周辺の平定を受けて、信長は陣所を東別所へと進め、ここで船待ちします。
長島城を守る城砦:加路戸砦跡 近代の水害で詳細な場所は判らなくなりました
長島城を守る城砦:殿名砦跡は河川改修で木曽川の中に
長島城を守る城砦:押付砦跡比定地
JR,近鉄、国道の鉄橋が架かり、今も要衝ですね
その兵船の徴発ですが、一向衆側が妨害に動いていて、長島の部将:日根野弘就から大湊の会合衆に“協力せぬ様”根回しが有り、もともと一向宗門徒も多い会合衆は拒否する事で一致した様です。
(この為、会合衆の代表は後に信長により処刑されます)
大湊は北畠氏の領内の筈ですが、養子に入ったばかりの15歳の信雄に強制する力は無く、
実質は養父の具教への命令なのですが、具教に従う気はさらさら無かった様です。
(こちらも後に北畠一族が大粛清されます。)
10月25日まで待った信長でしたが、今回も渡河を諦め、矢田城に滝川一益を留守居させると、岐阜へと撤退して行きます。
一益が拠った矢田城本丸跡(桑名市矢田・走井山公園)
容易には落とせない険しい崖端城でした
ところが、また今回も帰途に待ち伏せの伏兵が居ました。
美濃街道を北上し、多芸山(養老山?)あたりに来た時、俄雨に見舞われ、それを待ってたかの様に一向衆の襲撃を受けたのです。
火縄銃が使えず斬り合いとなった中では、信長自身も槍を取って戦う混戦でしたが、ここは槍の名手の林通政が立ちはだかり、信長を逃がした後、壮絶な討死にを遂げました。
前回と同じパターンで帰路を襲われてしまった織田軍ですが、用心はしてた筈なのに再来となった理由は、一向衆の顔ぶれが近江の浅井・六角残党と甲賀・伊賀の忍者が主力で、隠密かつ機敏な動きが大きかったのでしょう。
信長の天下布武による敗残兵の存在と、それを味方に取り込む本願寺の巧みさ…ですね。
【第三次長島一向一揆】
今や長島攻めの肝となった兵船の確保。
信長はその奉行に九鬼善隆を抜擢し、伊勢湾や熊野灘の浦々から武威を以って強制的に徴発させました。 善隆にとっては本職、造作も無い事ですね(^^;
それらが整った天正2年(1574)6月、三度目の長島攻めが号令されました。
今回は陸路三方向に加え海路からも軍が編成され、総勢12万人の空前の陣容です。
第三次長島一向一揆概要 空前の大軍で陸海から攻め、遂に一揆討滅に成功しますが、大きな被害を蒙ります。 古書参考ながら、妄想図です。
7月14日から総攻撃が始まり、圧倒的な兵力での陸と川からの攻撃で砦は次々陥落し、翌15日には一揆勢は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城砦に入り籠るのみとなりました。
信長はこの5城を兵糧攻めする事に決め、周囲を固く囲みます。
大鳥居砦では夜間に脱出を試みますが、千名余りが討たれて、最初に陥落しました。
長島城を守る城砦:大島城跡は長良川の中になりました
対岸には桑名城があり、蟠龍櫓が見えています(望遠レンズ使用)
長島城を守る城砦:篠橋城は木曾川の中
対岸の五明 織田軍本隊はここに集結し、翌日一気に攻め寄せました
8月12日まで耐えた篠橋城でしたが、兵糧が尽き、一揆勢は降伏して長島城へと去ります。
篠橋城の兵を受け入れた長島城では、瞬く間に兵糧が底をついてしまいます。
多くの餓死者を出しながらも、9月の末まで耐えた一揆勢でしたが、ついに『開城して立ち去る』事を条件に降伏を申し入れます。
これを受け入れた信長でしたが、部下には指導者の僧や主立った武士は撃ち殺す様に指示していました。
果たして、願正寺顕忍を先頭に一揆勢が城を出て、船に乗り込もうとした刹那、織田軍の鉄砲隊が火を噴き、顕忍や下間頼旦など、多くの僧達が斃れてしまいます。
これに驚いたのはまだ城内に居た数千名の武士達で、『皆殺しにされるぞ!』と決死の覚悟で織田軍に斬り掛かり、逃走を図りました。
織田軍にとってこれは想定外だった様で、開城に立ち会っていた多くの武将が混戦に巻き込まれ、織田信広、秀成、信成など、信長の兄弟親族が多く討死にしています。
信長は油断から兄弟親族の多くを失ってしまいます。 これは本能寺へ至る過程や、その後の織田家の運命に大きく影響する事になります。
この報にキレた信長は、残る屋長島、中江の2城に籠る2万人の一揆勢に対しては、一転して“殲滅”を指示します。
包囲する織田軍は城の周囲を柵で囲み、薪柴を積み上げて火を掛け、全て焼き殺した…といいます。
そんな作業が出来るという事は、おそらく2城にはまともに抵抗できる武士層は残っておらず、農漁民と家族の純粋な一向宗門徒ばかりだったのではないかと推察します。
【一向一揆とは何だったのか?】
かつて一向宗と呼ばれた宗派は現在、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派になり、日本一の寺院数と檀家を持つ最も盛んな“大衆仏教”になっています。
奥さんの実家もこの宗派になるので、関わる機会も多いのですが、活動や説法、さらに経文の中にも過激なものは一切なく、極めて庶民に優しく親しみやすい仏教だと感じます。
(私の実家は禅宗なので、余計にそう感じるのかも…)
では何故、戦国大名など権力との闘争を厭わない武闘宗派となっていたのか?
それには戦国という時代の特殊性に多くの原因が有ると思います。
自らの安寧を願う土豪と庶民は惣を作り、心の拠り所としての蓮如上人が唱える「弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずる」という教義がマッチします。
そうした惣村どうしは同一の宗教を通して連帯を深め、大きな自治組織に膨らんで行きます。
組織が膨らめば、それを維持する武力が必要になるのが戦国時代であり、武士同士の合戦での敗残組がそこに“生きる場所”を求めて集まって来ます。
屋長島城跡はポンプ場と平和な公園になっています
中江城跡は神名社となっていました。
当時の寺院には洩れなく専守防衛の機能が有りましたが、能力を超える脅威には地域の大名が対処する…といった安全保障条約的な協力と棲み分けが成されていました。
例えば同じ浄土真宗の高田派もそうで、武闘に奔る本願寺派とは袂を分かち、批判さえしていますから、急激な膨張の中で僧による制御が不能状態…といった感も否めません。
そうなると、もう大大名との武力闘争さえ可能になり、蓮如上人の教義はただの“神輿”になっていたのでしょうね。
つまりは一向一揆とは、形は違えども、大名同士と同じ武力集団の権力闘争のひとつではなかったのか?
ただ、織田信長に対峙した顕如上人は、そうした流れの整理・発展を模索し、本来の教義に基づく安寧の実現、つまり仏教立国での全国統一をも目指していた様にも感じます。
万一、その流れで信長を斃せていても、代わりの武士は次々に出て来るし、宗教政権は象徴(神)としての天皇との棲み分けもより難しくなるから、道は遠いんですけどね…。
桑名市下野代の野志里神社にある千人塚は、一揆殉難者が埋葬された場所と伝わります
平和な田園地帯となった現在の長島(多度山上より)
長島に集まった武士達の多くは、最終段階では囲みを強行突破して落ち延び、日根野弘就や大木兼能など、豊臣・徳川政権で復活した者も少なくありません。
犠牲者の殆どは日々の小さな安寧のみを願い、集った庶民である事は悲劇に違いありませんが、その原因と責任はすべて織田信長の狂気に有る…とは決して言えないのです。
長島一向一揆 おわり