伊勢長島城は戦国末期の元亀元年(1570)から4年間に及ぶ激戦『長島一向一揆』の舞台でもあります。

巷間伝わる概要では、『第六天魔王:織田信長による宗教弾圧と大殺戮…』みたいになっていると思いますが、本当にそうだったのか?

戦跡を巡りながら少し掘り下げて見たいと思います。

 

 

【背景】

 長島とは木曾三川デルタの輪中地帯に浮かぶ島々のうち伊勢国側の7島、“七島”が語源の様です。

戦国初期には伊勢の国人伊藤氏が支配していましたが、交通手段が限られる為か独立性の高い化外の土地でした。

 

当時の河岸線と輪中の分布 河川改修後の現状と違い氾濫原は広く、島と水路が複雑に入り組んでいます。 古絵図を元に手書きしたもので、精度の程はご容赦ください。

 

 

 この長島に浄土真宗(一向宗)の寺院が出来たのは文亀元年(1501)の事で、本願寺8代宗主:蓮如上人の六男:蓮淳が願證寺を開基しました。

以後、判り易い教義と支配層に容易に屈しない一向宗は土地の国人領主から農漁民に至るまで広く支持されて浸透し、戦国末期には長島だけでなく、周辺の地域に数十の寺院・道場を構え、信徒は10万人にも及びました。

 僧兵や武士層は当然ながら門徒の自治権益を守るため城砦を築いて武装し、一大勢力となっていたので、永禄4年(1561)に尾張を統一した織田信長も長島には手が出せず、対岸に城を築いて監視するに留まっていました。

 

願正寺があった場所は、河川改修により長良川の流路になってしまい、痕跡は何もありません。

西の山塊は多度山ですね。

 

長島城址の南西にある願證寺 宗派として願正寺を後継するのは名古屋別院ですが、流れをくむ寺ではある様です。

 

本堂の前には一向一揆による殉教者の慰霊碑がありました。

 


 永禄10年(1567)、信長に美濃を追われた斎藤龍興とその手勢は長島に逃げ込みます。

これを追う形で北伊勢に侵攻した信長は、長島には渡らず、一向宗門徒を含む国人領主(HKS48)の城を攻めて服属させたので、これで両者の関係は一気に敵対化し、緊張が高まりました。

 

 

【一揆の発端】

 元亀元年(1570)、大坂本願寺が建つ石山の明け渡しを要求した信長に対し、激怒した顕如上人が全国の一向宗門徒に“反信長蜂起”の檄を飛ばすと、長島願證寺の証意はいち早く反応します。

 本願寺の武闘派僧:下間頼旦が雑賀衆鉄砲隊を伴って到着すると、対岸にあった織田方の小木江城を激しく攻めて、城将:織田信興(信長の弟)を自刃に追い込みました。

 また、これに呼応し寝返ったHKS48の幾つかも、監視役の滝川一益が居る桑名城を攻め、一益を敗走させました。

 この時信長は、近江坂本で比叡山に籠る浅井・朝倉勢と対峙(志賀の陣)しており、救援に向かえません。

 

長島の北に接する立田輪中の先端にあった小木江城址(愛知県愛西市森川町)

 

信長が一番頼りにしていた弟の信興でしたが、一向衆の大軍に囲まれ激闘6日、援軍も無く、兵も尽きて、櫓に登って自刃しました(説明看板)

 

隣りは道の駅:立田ふれあいの里なので、休憩ついでに訪城しやすい立地です(遺構はありませんが)

 

 

先日に宇佐山城の戦で弟:信治を失ったのに続き、最も頼りにした信興をも失って、“一向宗憎し”の気持ちを強くした事でしょう。

 

 

【第一次長島一向一揆】

 朝倉義景と和睦して岐阜に戻った信長は、年が明けた元亀2年5月には“長島攻め”に出陣します。

 信長の本隊は東岸の津島に着陣すると、北の小木江城には佐久間信盛が率いる尾張衆が入り、西岸では柴田勝家が美濃衆を率いて南下し、総勢5万で三方から囲みました。

 

 対する一向衆は、戦闘できる兵力は2万5千程度でしたが、島々に無数の砦を築き、前線には戦い慣れた武士団や雑賀衆を集中配備して頑強に応戦したので、兵船の準備も薄かった織田軍の攻撃は思うに任せず、苦戦を強いられます。

 長島上陸はおろか、敵の前衛すら突破できない事態に信長は、戦術の練り直しの要を痛感したのか、攻囲わずか数日で全軍に撤退を命じます。

 

第一次合戦概要図 *多分に憶測があります

 

柴田隊の攻撃を受け止めた香取砦比定地(桑名市多度町上之郷)

 

同じく大鳥居砦比定地(桑名市多度町大鳥居) いずれも詳細は不明で遺構はありません。

 

 

 しかし織田軍の退き陣を見た一向衆は、西岸の砦の一軍が多度の山を越えて先回りし、美濃街道を撤退する柴田勝家の隊を待ち伏せしました。

勝家隊が地形が狭隘になる石津(?)辺りに差し掛かると、突然山中から一向衆の矢弾が大量に降り注ぎ、大混乱の中で勝家自身も被弾・負傷してしまいました。

 ここは氏家卜全が立ちはだかり、勝家を逃がす傍ら殿軍を務めますが、卜全はここで討死にしてしまいます。

 

多度山上より岐阜城遠望 ガスって不明瞭ですが、中央の山塊が金華山です。 岐阜から長島西岸に至るには、氾濫原を迂回して大垣から養老山系の麓を走る美濃街道が唯一の陸路でした。

 

南濃町安江に遺る氏家卜全の墓碑 西美濃三人衆最大の兵力を誇った卜全も、一揆勢(近江六角勢)に囲まれ、志半ばで斃れました。 享年38

 

 

 信興の“弔い合戦”で臨んだ戦いでしたが、一向衆の思わぬ武力と戦術の巧みさで“見事な返り討ち”となった第一次長島一向一揆の戦いでした。

 

 ここまで見た限りでは、抑圧された農漁民の信徒が鍬や鎌を手に立ち上がった一揆とは随分違う様相ですね(^^;

 

 

《後編》につづく

 

 

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久しぶりに晴天が続いた土曜日

例年より少し早めにサツマイモを収穫しました。

 

古民家の芋畑は雑草まみれ(^^; まずは草刈りから始めないと…

 

草を刈って、蔓を処理して、マルチを剝がし準備完了。 今回はスイーツ系2種(紅はるか、安納芋)のみの収穫で、調理用(鳴金)はもう一ヶ月育てます

 

午後になって、芋掘り隊到着! 

 

焼き芋サイズに育った頃合いに合わせての、早めの収穫でしたが、4ケース採れました。 

 

 今年は長雨と日照不足で、他の作物同様に不作が懸念されましたが、一番人気のサツマイモがまずまずの作柄で、ひと安心です(^^)