ワクチン接種終えて『さぁ、活動再開!』って矢先に緊急事態宣言なんだそうです。
しかも我が三重県まで…。
“とこわか国体”やりたくないから、PCR頑張ったのかな? などと邪推しながらも、“他国への越境禁止”が絶対条件なので、県内で未踏の城を探してたら、意外にも『伊勢長島城』が水戸城だった事に気付きました(^^;
東海の城 伊勢長島城 三重県 登城日:2021.9.11
別名 松箇島城
城郭構造 平城
築城年 寛元3年(1245)
築城主 藤原道家
主な改修者 伊藤重晴、滝川一益、松平定政、増山正弥
主な城主 願證寺証意、滝川一益、織田信雄、菅沼氏、久松松平氏、増山氏
廃城年 1872年(明治5年)
遺構 石垣、堀、移築大手門、移築奥書院
桑名市指定文化財 移築大手門(蓮生寺)、大松
所在地 三重県桑名市長島町西外面2188(小学校)
長島城は木曽三川の河口デルタにある輪中(中州)のひとつ、長島に築かれた平城です。
初の築城は鎌倉中期と古く、関白を辞した藤原道家が居館を置いたと言われます。
道家は鎌倉4代将軍に貰い受けられた藤原頼経の実父で、関東申次も務めたので、道中の居館が必要だったのでしょうね。
戦国期の長島を支配したのは北勢四十八家(HKS48)のひとつ伊藤家でしたが、一向宗本願寺が天文年間に道場:願證寺を建立すると、元亀元年(1570)には伊藤氏を追い払ってしまいました。
長島城を手に入れた願證寺証意は、本願寺と謀って周辺へと勢力拡大を始めますが、この動きは織田信長の弾圧を呼び、『長島一向一揆』と呼ばれる3年に及ぶ激しい戦いが繰り広げられた後、夥しい犠牲者を出して信長に殲滅されました。
織田領となった長島城は重臣の滝川一益が居城にして整備し、次に織田信雄の持城となった際には天守も建てられた様ですが、天正大地震で倒壊したそうです。
江戸時代になると長島藩が置かれ、菅沼氏や久松松平氏などの譜代が配されましたが、元禄15年(1702)に増山正弥が常陸下館から2万石で移封して来ると、増山氏が165年を7代で繋いで明治を迎え、廃城となりました。
伊勢長島は水郷の地であり、水害にも幾度となく見舞われ、近年までその復旧や河川改修が行われた為か、現存遺構は皆無…と言って良いほど城跡は失われています。
しかしこの城には正保城絵図をベースにした、より詳細な城絵図が遺っていて、旧状をイメージするのはそう難しい事ではありません。
今回は城絵図と現状を照合して歩き、新たな遺構でも発見できたら…と思います。
国道1号線沿いにある『水辺のやすらぎパーク』駐車場に車を入れ、徒歩で散策を開始します。
見所は多くは有りませんが、町割りは昔のままで、古い町は気持よく歩けます。
中部小学校(本丸跡)正門脇にある絵図看板が散策のベース 郭の大きさや堀幅・水深まで数値の入った詳細なものです
堀端の遊歩道を200m西へ歩くと大手橋に着きます。
この橋の位置は変わっていない様なので、今回の探索の起点にします。
しかし、思ったより堀幅が狭いですよね~、何故なんだろ?(^^;
また、“隠れた残存遺構ではないのか?”という声もあるのが大手橋の基壇の石垣です。
果たして…。
大手橋はコンクリート製になっていて、長さ25m、幅は7mあります
基壇は古い石積みで、端は確かに算木に積まれている様な…
本丸の堀を挟んだ北東側は当時から町屋だった様ですが、こんなに近いの?
絵図と現在の写真を同縮尺で並べて見ると…
堀幅十九間(約35m)は、堀沿いの道路間に相当します。
平和になると水運の為に堀を埋めて河岸が造られ、そして水運が廃れると河岸は宅地に変化した(?)そんな変遷が見られます。
橋の基壇も石垣の土橋がせり出し、中央部だけ木橋だったのが判ります。
橋長八間半、橋幅二間半は15m×4.5mですから、現在より小ぶりですね。
石垣構造もかなり異なるのですが、堀の埋め立て分を勘案したら、西側基壇はほぼ流用されたかも知れませんね。
最低でも角石の石材は再利用されているでしょう。
少し奥の、舟入があり折れの続く石垣造りの虎口部分は楽しみにしていましたが、綺麗さっぱり無くなっていました(^^;
続いて本丸方向へ歩いて行きます。
本丸のある主郭へは太鼓門という櫓門を潜って入った様ですが、この太鼓門の位置を特定して見ます。
太鼓門を入ると武者溜まりになり、枡形から黒門を経て本丸御殿に至ります。 仕切に八尺(2.4m)の石垣列があった様ですね。
本丸は小学校になったと言われ、その証拠に黒門脇にあったと言われる樹齢300年超の黒松の大木が奥に見えています
さらには、黒松まで続く右側の植え込みは段差を作り、所々に石垣の名残りがあります。
太鼓門の位置は現小学校正門と見て良さそうですね。
少し進むと、堀端へ下りる水の手口らしき箇所も発見しました。
太鼓門から本丸東面は土塁+土塀になり、五十七間続いた後に堀は西へ直角に折れます。
その丑寅の角の所は、偶然にも隣接する中学校の校門前でした。
小学校校門から五十七間(104m)歩くと、中学校の校門でした(^^;
念の為、絵図にある菩提所の花林院を確認に行きましたが、位置関係バッチリです。
ここから西へ未申の角まで、十六間(29m)幅の堀が延びていたわけですね。
…以下《後編》につづく…