熊野古道歩き、曽根次郎坂・太郎坂の後半です。
甫母峠から太郎坂を下って行きます。
甫母峠からはしばらく尾根道を縦走した後に、二木浦へ向けて急激に下りて行きます。
基本はヒノキ林の中ですが、時折は視界の拓ける場所も有り、陽光溢れる熊野の海が臨めます。
樹林の中のフラットな道は歩きやすく、ホッとします
ただ、石畳には針葉樹の根が被っていて、極端に歩きにくいですね。 可哀相に、冬眠から醒めたアオダイショウを踏んでしまうアクシデントも…(^^;
半島の尾根ですから、樹林が拓けると海が見えます
入江には養殖の生簀があり、舟が来て餌やりの最中でしたが、たぶんハマチでしょう。
甫母峠はかつては紀伊国と志摩国の境界だったそうです。
両国とも平地の少ない、陸路での移動が困難な国であり、熊野地域は国府とも隔絶した僻地な訳ですが、天正10年(1582)に戦国領主の北畠氏と堀内氏の間で、領地の境が荷坂峠と決められると、行政区域としての国境もこれに倣い変更され、紀伊国となって現在に至ります。
江戸時代になると紀伊徳川藩領となったこの地域、55万石の石高のうち、18万石の領地が伊勢国に有った徳川家は、重要な動脈となる熊野古道を大々的に整備しています。
“巡礼の道”だけでは成し得ない維持管理の経済的背景がそこに有った訳ですね。
比較的広い谷に石垣を積んだ土橋の区間がありました。 “歩く”だけでなく“運ぶ”事への投資が見て取れますね。
古道は急な下り区間になりました。 要注意です。
南向き斜面なので、もう山ツツジが満開です
猪垣が現れて来ると、もう人里ですね。
石垣を積んで造った畑の跡ですが、切り石の本格的な石垣です!
この辺りは城址と見紛う出来の良さです。
太郎坂を下りた麓の二木島は漁業の集落で、古くは“二鬼島”と表記された様です。
熊野灘の浦々にはそれぞれ鬼(海賊)が居た様ですね(^^;
二木浦に注ぐ逢川は清流としても知られますが、伊勢の神と熊野の神が出逢った場所だそうで、この川が志摩国と紀伊国の境だったという伝説もあります。
江戸時代の二木島は木材の積み出し港として、船の風除け港としてたいそう賑わった様で、江戸中期の『全国湊番付』では西前頭四枚目にあります。
現在はそんな面影も無くなった、鄙びた漁村ですが、JR二木島駅はホームから海がきれいに見える駅として、マニアに人気の駅らしいです。
海が見えて来たので、太郎坂も終点ですね
二木浦は高い山に囲まれて、長崎みたいな良港の風情がありますね。
古道はJR紀勢線の線路わきに降りて来ます。
はい、本日のゴールです。
逢川越しに太郎坂を振り返る 鄙びた漁村の風情ですね。
二木島駅のホームから クルマのある賀田駅に戻ります
まだ早い時刻だったので、昨春にスルーして来た尾鷲の『熊野古道センター』を訪ねます。
立派な佇まいから、熊野古道伊勢路の情報発信基地=聖地なのかと思っていましたが、展示されてるのは尾鷲市の清流:銚子川に関するものだけでした。
熊野古道の名は借りているものの、内実は“尾鷲市の文化交流センター”です。
古道歩きだけが目的なら、特に寄らなくても良い施設でした(^^;
おわり
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4月ももう半ばなので、家庭菜園も農繁期に入っています。
作物の顔触れも植え方もほぼルーティンワークなのですが、今年は失敗続きの自然薯の育て方を工夫したので、紹介します。
股根になってキレイな芋の採れない自然薯に貰えた用地は…これだけ(*_*;
草取りして耕し、狭いから東西に背中合わせで畝の斜面を作ります
これまでは雨樋でパイプ栽培していましたが、土圧が掛かり過ぎて股根の原因にもなっていた様です。
今年は波板栽培にして見ます。
畝の斜面に波板(60×90)を設置します 傾斜角は15~20℃くらいで、急だと細長く、緩いと太短く育つのだそうです
芋が成長する波板の直上の土は篩っておきます
その上に20㎝厚で均等に土を被せます 芋の養分となる土なので、表面に化成肥料をふっておきますが、夏の終わり頃にも追肥要
畝のピークの部分から枝が伸びる様に、5㎝の深さにタネ芋を植えます
股根になる最大の原因は過剰な水分だそうですから、畝を白黒マルチで覆って、雨水を完全に遮断します。
ホームセンターで白黒マルチを探したけど無いので、同一資材と思われる肥料袋で代用します。
これで5月になって芽が出揃ったら、枝葉を茂らす棚を造ります マタネ~!