『麒麟がくる』も無事に終わりましたね。
久しぶりに画面に集中した大河ドラマでした。
ネット上でも賛否含めてロス絡みの議論が飛び交っていますが、あらためて思う事は、従来の歴史ドラマの様に主役目線だけのヒーロー物語りではなく、関わる脇役、特に人間:信長の目線も大切にした“史実の謎解き”に踏み込んでいた様に思います。
『真田丸』の様な主役最強の娯楽時代劇を期待する人の方が多いのでしょうが、歴史愛好家に少しだけ歩み寄った脚本でした。
ただ、やはり尺が足りなかった様で、最後に細川藤孝と筒井順慶が秀吉を選択する(というか、一蓮托生の光秀を選ばない)理由が十分に描かれずスッキリしなかった。
『藤吉郎、さりとてはの者』、その為の佐々木蔵之介さんの起用だった筈で、史実はそこにある様に思うのですけどね。
近江の城 三雲城 登城日:2020.02.06
別名 吉永城
形式 山城
標高/比高 334m/180m
築城年 長享元年(1487)
築城主 三雲新左衛門実乃
城主 三雲氏
廃城年 元亀元年(1570)
遺構 土塁、堀切、石垣、井戸など
史跡指定 滋賀県史跡
所在地 滋賀県湖南市吉永251
前回、小堤城山城で“六角氏の隠れ家”と書いた三雲城です。
この城の有る湖南市吉永は、旧甲賀郡に属し、戦国時代には甲賀53家のひとつ三雲氏の城でした。
三雲氏は武蔵児玉党の支族ですが、室町初期に近江に移り、六角氏に仕えました。
南北朝の争乱での移動だったんでしょうね。
登城の林道には幟が立って、集客対策がされてます
城の入口 道路が広くなった部分が駐車場で、3台程度は停められそう
色んな看板でPR 猿飛佐助が三雲氏の出説がある様で、売りになっています
お城自体は小ぶりですね。
木箱からパンフレットを貰って(残ってました)登って行きます
当初は甲賀武士団の一家だった三雲氏ですが、希類の働きが主君に認められ、次第に領地も増え、武士団を束ねる地位になって行きました。
長享元年(1487)、足利義尚の幕府軍に攻められた六角高頼は、宿老の三雲実乃に指示して退避の為の山城を築かせました。
それがこの三雲城です。
さっそく現れた石塁ですが…こういう事。 城の石垣が転用された?
すぐに緩斜面の平場に着きました。 看板も写せば説明文が省けます(^^;
どうやら転用ではなかった様ですね。 そういえば、そこら中に巨岩がゴロゴロしています
この上がもう主郭の様ですが、一部に石垣が使われています 隅櫓でも有ったか?
国道1号線で湖南市を走ると、併行する野洲川と広い田園の南側に甲賀の山並みが迫っています。
三雲城はその先端の山上に築かれた城で、湖南地域を一望できると共に、山深い甲賀の入口にある事が判ります。
アプローチの道は一本道ですがとても狭く、看板類も充分ではないので、ナビ設定は必須ですね。
主郭虎口の枡形 おぉ、石垣だ!(知ってたけど…)
矢穴での割石ですね(書いてるけど…) 時代は観音寺城の石垣と一致します
主郭は300坪程度か 平坦に削平もされておらず、ここに御殿が有ったかは微妙
井戸は穴太衆が積んだみたいにシッカリした造りです
井戸端から見下ろす枡形虎口 石がデカイ!
城域に入ると、後世の石の構造物が多くあり、石切り場の跡も残っていて、この山が岩山である事が判ります。
三雲城の特徴も時代に先駆けて石を多用した構造にありますが、驚く様な石垣遺構はと言えば主郭虎口門の枡形に限られます。
その主郭も、六角氏の当主が一定の兵力で籠るにはいかにも手狭で、他の郭は山上の尾根に物見の小郭が幾つか有るのみでした。
これは最後の詰めの城と言うよりも、一旦避難した後に、背後の甲賀武士の拠点を転々して、ゲリラ的に抗戦し、逃げ延びるのが六角氏の戦略だった様ですね。
山を背負って探索を難しくするのは、弱者の常套手段、南朝手法ですね
山上の郭を覗いて見ます
西向きの2の郭からは湖南がまる見え 物見に最適の郭です
“夕日の名所”に売り出し中
戦国武将と言えば、最後は居城を枕に討死にする覚悟で家と家臣団を一極統制するものですが、六角氏のやり方は違う様です。
しかし、家が傾くとこのやり方は完全に裏目に出ます。
義賢が野良田で浅井長政に敗れ、失意で家督を嫡子の義治に譲り、その義治が諫言する筆頭重臣の後藤氏を誅殺するという悪循環で、六角家臣団の結束は緩んでしまいます。
そこに侵攻して来たのが織田信長であり、いち早く三雲城に逃げた義治に従う家臣は少なく、多くが降伏して、無抵抗に近い形で領地は占拠されてしまいます。
4の郭も広くはないが、多少の兵士は溜まれそう
4の郭は堀切で捨て曲輪になってしまいます(^^;
とにかく、そこら中に花崗岩の巨石があり、その気になれば総石垣の城でも出来そう
最後に、名勝:八丈岩へ 傾いてて、落ちそうで落ちないので、受験生の願掛け場になっています。
おそらく、築城時から同じ思いで祀られて来たのでしょう。
そんな中でも三雲定持・成持親子は終始主君の六角氏に忠実で、定石通り主君を擁したゲリラ戦を戦いましたが、元亀元年(1570)、鯰江城の戦いで定持が討死にすると一族は四散する事になります。
流浪の成持は後に織田信雄と蒲生氏郷に仕えましたが、最後は徳川旗本に収まり千五百石の知行地を甲賀に得ました。