自粛警察の眼が厳しい中、スーチー生活が続いています(^^;
こうゆう時にこそ、人の少ない田舎暮らしにメリットが有りそうなのですが、背伸びして都会と同じ様にしたいものだから、不自由の二乗になってしまいます。 やれやれ…。
そんな訳で今回も、未発表の過去ネタから。
近江の城 小堤城山城 登城日:2020.03.06
別名 永原上城?
形式 山城
標高/比高 286m/180m
築城年 室町中期
築城主 永原氏
城主 永原氏
廃城年 天正年間?
遺構 郭、堀、石垣
文化財指定 なし
所在地 滋賀県野洲市大篠原
安土城以前の城としては、異様に多くの石垣遺構を遺し、山城マニアには人気のこの城ですが、公的な評価は低くて、史跡指定はありません。
訪城バイブルの日本城郭体系にも記載は一切無く、地元野洲市のHPを覗いても紹介されていないのです。
既登城のマニアのクチコミだけが頼りの下調べになりましたが、実はこの城にまつわる古文書の記述が無いんだそうです。
R8の平田機工さんの交差点を南に入り、まっすぐ山に向かいます 稲荷社を過ぎた用水池の傍が広くなっていたので、路駐させてもらいました。
100m先にあるゲート 入山禁止ではなく、クルマ侵入禁止。 この奥は林業地なので、重機やトラック専用なんですね。
中は林道が縦横に走っていますが、分岐には看板があります 城址は『城山』と表記
アフリカの家畜の柵みたいなのがありました(^^;
いよいよ此処から城内です
城を築いたのは六角氏家臣の永原氏と推定されていて、応仁の乱後の事ではないかと言われます。
永原氏は元は馬淵氏の家臣で、六角氏からは陪臣でしたが、南北朝の争乱に活躍した為、室町中期には直臣に昇格していたそうです。
(観音寺城の屋敷跡も隣りですね)
入口の縄張り図 伊勢エビみたいな形ですね(^^; たくさん有る郭も判り易い様に№が付けてあります
エビの胴部分は分譲住宅地みたいに小郭が重なっています。
ここは風邪をひきやすい人向け
ここは重労働が出来ない人向け…とか?
上段の方は敷地も広く、石橋付きです
野洲郡、栗太郡、甲賀郡にまたがるこの地を貰った永原氏は、居城の永原城に加えて5城を持つまでになっていましたが、実はこの中の記述にある『永原上の城』という所在の不明な城が比定されているのだそうです。
しかし、山城ながら石垣を多用する小堤城山城の豪華な仕様を見れば、そんな勢いの有る時期に築城したであろう事は容易に推察出来ますね。
上には土塁が見えて来ました
さっそく腰巻きが二重に施されていますね
通路脇には物見の櫓台がせり出し…
たぶん大手の虎口ですね
腰巻きを履いた郭を“主郭”と表記されていますが、武者溜まりでしょう
同時期の城で、“六角氏の隠れ家”だった甲賀の三雲城にも同じ事が言えますが、蓄えた石積みの技術はその後、観音寺城の拡張や、安土城の築城に発揮された…と思うのですが、あくまでも想像の範囲での話です。
この郭に案内板が掲示されていますが、野洲市教育委員会ではないんですね、やっぱり
東から竪堀が落ちて来てるので、これを登って14の郭へ行きます
14の郭は広さもあり、フラットに削平されているから、建物が有ったのでしょうね
郭の先端は石垣で強度を確保しています。 石がきれいなので、近年に積み直し補修された様です。
永原氏は、織田信長の近江侵攻で一旦流浪の身となりますが、後に赦されて永原城に復帰し、3千石を得ていたそうです。
石垣技術を買われたか?
永原氏もまた資料が残っていない家で、その後に山崎の戦に参戦し、討死にして滅亡したそうです。
東側も石垣造りですね。
15の郭との堀切も石垣で固められています 石粒は不揃いなので、この山で調達したものでしょう
16の郭に上がってきました 全ての尾根と道が集まるこの郭が一番広く、城の中心です。
山頂の郭へと上がって行きます この辺りの石垣はずいぶん崩落が進んでいます
山頂21郭にある山神様 森林組合が発見し、当面保護してる城址なのかな?
信長が近江を平定する過程で、永原城には佐久間信盛が入っていますから、佐久間軍団に与力したと仮定し、信盛失脚後の職務や家臣の処遇は明智光秀が受け継ぎますから、山崎には明智方で参戦した? と思うのが自然です。
(討死にして滅亡という事は負け組ですからね。)
しかし、200名くらい載ってる手持ちの明智家臣団名簿にその名は見つかりません。
山頂最高所の24郭は物見台ですね
西方面には南近江の名だたる城址が遠望できます
南隣りに立つ三上山と草津市街の遠望
どこまでも謎の小堤城山城と永原氏でモヤッと感の残る訪城ですが、やはり評判通りに質の良い見どころ満載な城でした。
先達のブログで拝見する写真よりも整備が行き届いていて、手軽に登れる城になっています。 この先、学術的な調査と保護へと進んで行く事に期待しましょう。