上田城の続きです…

 

 天正13年の『第一次上田合戦』での圧勝を以って、真田家は正式に秀吉に臣従し、豊臣大名に列しました。

 上杉景勝へ人質に出されていた二男:信繁がそのまま秀吉の人質として大坂に移り、以後は豊臣色に染まって行きます。

 これで最大勢力の後ろ盾をを得た昌幸ですが、家康との対立を深めて行ったか…と言えばそうではなく、翌年には家康も秀吉に臣従を決めた為、正面切って争う事態は回避されました。

 

仙谷氏により再建された本丸東虎口門辺りは立派な石垣で構成されますが、それでも石塁は限られた部分のみで、大半は土塁の“土の城”です

 

内堀も外堀も、真田の堀跡を忠実に掘り返して再建されたと言いますから…

 

昌幸の城を彷彿とさせる遺構が、この堀の部分だと言えます

 

 

 しかし、家康が勝手に北条氏への譲渡を決めた沼田領の帰属に関しては未解決のままなので、北条氏政の意向もあり、秀吉による調停を受ける事になります。

秀吉は『真田家の沼田領を利根川で東西に二分し、沼田城を含む東側を北条に譲渡する。その代替地として家康の信濃箕輪領(伊那谷)を昌幸に渡す』という調停案を示しこれが実行されました。

 

 また、北条はともかく徳川、真田双方ともに不本意な裁定は明白なので、真田家を徳川家の“与力大名”という位置付けに置き、一致協力して東国に対処する事とし、禍根の解消を図ります。

 さらに一番ウルサそうな本多忠勝の愛娘:小松姫を昌幸の嫡男:信之と娶せるなど、まさに人たらしに長けた秀吉らしいやり方ですね。

 

 

城址公園の北側にある野球場と奥の陸競場は外堀の役目を果たした大池の跡 つまりその北側はもう城外です

 

内堀の出口(西櫓の下)から尼ヶ淵に降りて西に向かい、西側の郭の痕跡を見て行きます

 

部分的に石垣で固められた段丘ですが、真田時代は切岸のままだった様ですね

 

 

 秀吉と昌幸の間には密約があり、徳川の内偵・監視を命ぜられていた…という説も有りますが、この時点の両者がそれ程に親密だったとは考えられないので、秀吉にとってはもう北条氏の征服しか眼中に無かったのでしょね。

 

 その北条ですが、秀吉の上洛命令に家中がまとまらず、ダラダラ先延ばしにした結果、もう臣従しても領地の大幅割譲は避けられない状況でした。

(この時点で秀吉からは、武蔵、相模、伊豆の約93万石の安堵が示されていた)

 天正17年、北条氏の主戦派が真田の沼田領に攻め入り、占領した事で豊臣政権総出での北条討伐が号令されます。

 

 

100mほど歩くとある切通しの道路は、明らかに堀切の跡です

 

右手の高台に登って見ると、大きな空堀がクランク状に走り、横矢になっています 小泉曲輪の東端か?

 

左側の郭内との高低差も大きく、上田城の防御力の高さが伺えます

 

さらに西側にも曲輪があったと言われますが、現在はグランドになっていてフラットです

 

 

 この戦いで真田家は、前田利家、上杉景勝らと共に碓氷峠から上野に攻め入り、武蔵へと北条方各城を攻略して行きます。

 松井田城、鉢形城、忍城、松山城、八王子城などの攻城軍にその名が 見えますが、小田原城攻囲陣には見当たらないので、小城の掃討を地道にやってた様ですね。

 

 天正18年7月、北条氏は降伏し滅亡します。

関東八ヶ国220万石にも及ぶ旧領には徳川家康が移封します。

沼田領もこれに含まれると思われますが、秀吉の調停で北条氏に渡された領地も含め、沼田は褒賞として全て昌幸に返還されました。(箕輪領は返上した)

これで昌幸は第一次上田合戦以前の領地(約6万石)をすべて回復した訳ですが、実質加増には至っていません。

 

さらに西に向かうと、千曲川の段丘蝕崖もだんだん低くなって行きます

 

西端の曲輪は捨て曲輪で、大池の水が千曲川に流れ出る川筋(蛭沢川?)が堀になっていたそうですが、此処か?

 

土壇上にはポツンと土塀&屋敷門が残っていました

 

 

 この事は秀吉の昌幸に対する評価を如実に顕していて、所詮は田舎の小大名に過ぎない…と思っていたのか、はたまた癖の強い昌幸は信用ならんから、高禄は与えられない…と考えたのか。おそらくは後者なのでしょうね。

 

 しかし真田家と捉えたとき、秀吉は人質の信繁をかなり優遇しており、側近の大谷吉継の娘を娶せていますから、ゆくゆくは真田の継承者として推し、その節には善光寺平と佐久平などを加え数十万石の大禄で寓し、中山道を押さえる豊臣の強力な藩屏のひとつとする事を考えていたと思われます。

 

さらに200m西にも堀底道ぽい道がありましたが、西の芳泉寺の方が高いので、此処はもう城外の様です

 

芳泉寺は仙石氏3代の菩提寺で、五輪塔が祀られています

 

この寺は真田時代も浄福寺と号す菩提寺で、小松姫の墓所(分骨)でもあります。 ポカリ供えときました(^^;

 

上田城の西側への広がりは、この様になっていたと思います

 

 

 天正18年(1590)から慶長5年(1600)までの10年間、豊臣治世下で国内に騒乱のタネはなく、城の整備は防備の強化よりも住環境の向上に主眼が置かれます。

上田城もおそらく例外ではなく、この期間に主郭内の居館の造営や、兵農分離に伴う家臣の集住=城下町の整備が行われた事でしょう。

 この間の昌幸の動きはというと、二度の朝鮮の役に際しても、徳川の与力大名という位置付けから、後詰めとして名護屋へ滞陣したものの、渡海して直接戦闘/損害はありませんでした。

その代わりの賦役として命ぜられたのが伏見城の普請であり、昌幸が上田に帰還する事は殆ど無かった様です。

つまり、居城の上田城に対して、意思を持って強化改修を施した可能性は大きくない…という事ですね。

 

その④につづく

 

 

 

10月は野菜の収穫シーズンですね。

夏野菜は不作でしたが、イモ類は例年より良く出来ました。

 

強力な(?)助っ人がやって来て、秋野菜の収穫。 日ごろ土に親しむ事が無いので、大喜び(^^♪

 

この日は息子の家族分だけでしたが、この量です

 

現代は冬を前にして、不作で命の危機を感じる事はありませんが、それでも沢山採れると嬉しいものです。

自然の恵みに感謝しつつ、来期への活力を蓄える事ができました。