上田城の続きです。

 

天正12年頃の真田昌幸の所領  100万石超えの大大名に囲まれた7~8万石の小領地です。

独立を保つには誰かに寄生する他なく、誰に寄生しても常に先鋒としての厳しい戦いが必須でした。 

そんな環境で昌幸は、大国同士の利害の違いに上手く乗っての生き延びを画策します。

近年、近くでそんな国が有った気もしますが(^^;、 昌幸は当初は詰めの甘い、お人好しな北条氏との戦いが組し易いと判断したのでしょうが… あれ?

 

 

 昌幸の上野侵攻(奪還)は北条との和睦条件で割譲を約していた徳川家康の逆鱗に触れ、北条氏直からの“遺憾砲攻撃”もあって、対秀吉が最優先課題の家康は昌幸に沼田からの即時撤退を厳命します。

 しかし、上野の吾妻・沼田の地は、父:幸隆の代から真田家が血に換えて得た領地であり、寄親と言えども家康の勝手にされる筋合いはありません。

この要求をキッパリ拒否した昌幸に対し、家康は真田討伐を決意し、兵を上田平へと進めました。天正13年8月、第一次上田合戦の始まりです。

 

藩主屋敷(上田高校)を起点に城址公園に向かいます。 隣接する第二中学校は昌幸の叔父:常田隆永の屋敷跡です

 

中屋敷は柳沢病院の場所…との理解でしたが、実はもう少し南にあった様ですね。

 

仙石上田城の外堀に着きました

 

これらを現代の地図上にプロットして行くと、東側の外堀の位置は現在の外堀と重なります。

北側の外堀は現在の内堀と重なってしまいますから、昌幸の城は実は相当にコンパクトだったかも?

 

 

 この時の昌幸の決断ですが、家康の言に従って相応の替地を要求する道も有ったかと思えますが、カチンと来たのは真田に対する家康の『脅して言う事を聞かせ、その後に潰せば良い』程度の低評価でした。

 その前に、小牧長久手での圧倒的な秀吉の動員力を見せられた昌幸には、秀吉への天下の流れは変わらない…という確信の様なものがあり、わざと家康との手切れを画策していたのかも知れません。

 ハノイや板門店での会談はもう少し先になりますが、武名の高い家康と一戦交えて、勝利を収め、それを手土産に有利に天下人:秀吉の配下に入りたいという昌幸特有の戦略ですね。

その為に、一度裏切った上杉景勝に二男:信繁を人質に出して、支援を願い出て保険にしています。

 

大手門から二ノ丸へと入って行きます

まず二ノ丸にある市立博物館で参考になる資料を物色。 一連の資料集が売られていたので購入しました。

 

新たな企画として、上田城の復元CGが上映されていました。 真田三代と銘打ちながら、縄張りは思いっきり仙石氏以降のものですけどね(^^;

 

仙石上田城としては、盛り具合も少なく、未完の部分も忠実に再現されていました

 

三ノ丸大手門は、こんな簡素は冠木門で、人間でも蹴倒して侵入できそうです…。

 

 

 徳川家康の討伐軍ですが、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉の三将に率いられた兵は7千余で、真田軍2千に対し3.5倍の兵力です。

家康直接の出馬が無いのはまだしも、率いる将にも二線級を当てて来た事に、昌幸の落胆は大きかったと思います。

『これでは、余程の大勝を収めぬ限り目立った戦功にはならぬな…』

 

 では、この時点での上田城がどんな概要だったのか? ですが、江戸初期の山鹿素行の武家時事紀に、『尼ヶ淵の天守も無き小城に…云々』の記述がある様に、前面の千曲川の断崖と後背の泥湿地を最大限活かしてはいるものの、家康プロデュースの城ですから、石垣も無い小規模な土の城だったと思います。

 

唯一伝わる、真田上田城図 家臣の佐久間家所蔵 主郭は東西200m、南北150m程度の小城で、本当に初期の縄張りの様ですが、第一次上田合戦はこの城で行なわれたと思います

 

続いて本丸へと入って行きます 真田上田城はこの本丸のエリアに限られ、この中にさらに二重の堀が穿たれていた…とすれば、スペース的に無理があります。

 

内堀南端の石堤 仙石忠政は埋められていた真田の堀を掘り返して復元したのみ…とも言われますが、確かに太平の世にこんな凝った仕掛けは必要無いでしょうね。

 

廃城となった古城の絵図では、その縄張りは簡略されるのが殆どです。 真田なら尚更の事で、実際の縄張りはもっと西に拡がっていたのでは無いでしょうか?

 

 

 この城の弱点は東に開けた台地で、兵力差を頼んだ徳川勢の三将もこの方向から次々に攻め込む訳ですが、当時は空堀で区切った広い二ノ丸が造営されていました。

昌幸はここに木柵を巧妙に張り巡らせ、意図的に徳川勢を誘い込むと、伏兵が四囲から襲い掛かったので、先鋒の鳥居隊は堪らず一旦城外への退却を試みます。

しかし、後に続いて来た大久保隊の為に立ち往生となり、遅れまじと後備の平岩隊までもが攻め込んで来たので、徳川勢は右往左往の怒声が飛び交う大混乱となり、夥しい数の兵がここで犠牲となりました。

 

 城外では信之の別動隊に追撃されて、都合2千もの兵を失って大惨敗を喫した徳川勢は、小諸城まで退いて暫く対峙しましたが、戦況を知った家康が井伊直政に5千の兵を授けて後詰めに送ると、再び上田城へと進む準備を始めました。

しかし、そこに家康からの撤退命令が届きます。

徳川家重臣の石川数正が秀吉の元へ出奔した為で、真田VS井伊の興味深い対決は惜しくも実現しませんでした。

 

 

その③につづく