なかなか梅雨が明けませんね。

雨と曇天の日が長く続いて、今年は明らかに日照不足。

畑の野菜も生育がイマイチで、特に“日照が命”のスイカは、梅雨入り後は雌花に受粉させても結実しません。

こんな事なら全部早めに受粉させとくべきでした(^^;

 

 

 

 今回もまた古ネタでの投稿です。

信州の上田城は大昔にアップ済みですが、現在に残る遺構は仙石忠政の手による城(再建)であり、真田昌幸のものではありません。

では、智将:真田昌幸の築いた城とは一体どんなモノだったのか…?

2018年の4月に、まるっと1日かけて歩き回り調べた資料を基に、考証して行きます。

 

早朝の大宮駅 意外にも初めての長野(北陸)新幹線での旅です

 

列車が群馬の高崎で上越新幹線から分岐すると、左前方に見えて来る妙義連山 朝焼けに染まる山塊は見事なのですが、生憎の曇り空

 

それでもカメラに収めようと“E席”を確保してたのですが… 手前の小山が邪魔をして視界に捉えられません

 

列車はそのまま秋間トンネルに突入し、視界が開けたのはもう佐久平に入ってからでした(^^;

 

 

 真田昌幸の手によって上田城が築城されたのは、天正11年(1583)の事でした。

前年に主家の武田家が滅亡し、2ヶ月後には織田信長が謀殺されるという混乱の中で、一旦は織田領となっていた武田家遺領は徳川、北条、上杉の草刈り場となり(天正壬午の乱)、武田旧臣の国人達は生き残りを賭けて壮絶な戦いと離合集散を繰り広げていました。

 真田昌幸も例外ではなく、織田(滝川一益)の撤退後は上杉を頼り、次いで北条に誼を通じ、次には徳川に寝返って、さらに上杉→豊臣と、寄生先の大大名を替えて行きます。

 僅か3年足らずの間での目まぐるしい変節ぶりで、後に『表裏比興の者』という称号を与えられる訳ですが、主要な武田旧臣の中で生き残り、独立した戦国大名となり得たのは昌幸だけですから、豊富で正確な情報から素早く的確な判断をしたが故ですね。

 

上田駅に着きました。 ホームからコンコースに降りると、真田のデコレーション 真田三代を謳いながら、鎧も指物も信繁(幸村)一代限り(^^;

 

駅舎正面にも大きな六連銭  いっそ市章も六連銭にすればいいのに…

 

上田市は地元で実績のある昌幸と信之を大事にせんとアカンで!

 

 

 天正10年9月、北条に臣従していた昌幸は突如として徳川に寝返ります。

信濃から甲斐に南下して徳川家康と対峙していた北条氏直は、碓氷越えの補給ルートを絶たれる事となり、堪らず不利な条件(信濃・甲斐を諦める)での和睦を決意したと言います。

昌幸から見れば、徳川に“高く売る”チャンスを見逃さなかった…という事ですね。

 

 徳川臣下となった昌幸は、千曲川沿いに南下を伺う上杉を食い止めるという大役を仰せ付かりますが、抜け目の無い昌幸は家康に“城”を無心します。

『我が城(たぶん砥石城)は山城にて、守るに固いものの上杉勢に討って出るには些か不便です』

『せやんかぁ、川べりの街道沿いにおっきい平城を造るだらぁ』

『戦続きで年貢も入らず、先立つものが…』

『…わかったで、銭と人夫ならワシが用立てるだに』

こうして翌年に竣工したのが初代上田城で、上杉に対する徳川の最前線の城でした。

 

 北条氏への臣従要請に対する北条氏邦からの返書

主家の滅亡は気の毒だが、良い判断をした。北条に忠誠を尽くすなら歓迎する…みたいな事が書いてあります。 しかし、日付が勝頼の死の翌日なのにはビックリ! やりますね~(^^;

氏邦は氏康の三男で、北条の北部方面軍団長(鉢形城主)です。

 

唯一現存する昌幸時代の上田城絵図 随分とショボい城に見えますが、築城当初のものでしょう 

 

 そして信之時代の上田城址図 城は廃城となり畑地になっていますが、堀跡が記入されて粗く縄張りが読めます。 信之は右下の陣屋を築造して住んでいました。 

寸法が入っているので、この図を基本にして“昌幸の城”を探ります。

 

 

 上田城を手にした昌幸は、ここを拠点に近隣の小豪族を攻めて次々に滅ぼして行き、遂に小県郡全域を平定しました。

これは反徳川勢力の一掃という表向きの戦働きだった反面、昌幸の真意は独立大名として自立する為の勢力拡大だった様です。

 先年の徳川~北条の和睦で、上野の真田領だった沼田地方は、北条氏の“刈り取り次第とする”密約もあった様で、代替地を与えていない家康は、昌幸の動きを黙認していたフシもありますね。

 

 天正12年(1584)春、小牧長久手の戦いが起こると家康は尾張に進軍しましたが、昌幸はというと上杉の抑えで留守居となります。

 家康の眼が離れたこの機に乗じて、昌幸は上野に侵攻し、吾妻郡と沼田の旧領を次々に奪還して行きました。

 

最初に訪れたのは上田藩藩主屋敷跡 信之が建造し住んだ藩主屋敷は、次の仙石氏(6万石)が城を再興した後も御殿は建てず此処が使われ、次の松平(藤井)氏(5万8千石)も明治まで住みました

 

現在は県立上田高校となっていますが…

 

その校歌は真田色が強いですね

 

堀幅は2間半(4m55cm)です

 

 

その②につづく