百名城の二条城。
興味の有無に係わらず、日本人の多くが修学旅行で(強制的に)訪れた事のある城ですね。
皆さんご存知の様に、京都の街の中心にあって、難攻不落の要塞というよりは、守りの厳重な超豪華な御殿といった佇まいですよね。
日本百名城 №53 二条城 京都府 登城日:2018.9.24
別名 二条離宮
城郭形式 輪郭式平城
天守構造 層塔型5層5階(現存せず)
築城主 徳川家康
築城年 慶長8年(1603)
主な城主 徳川将軍家、天皇家
廃城年 明治6年(1873)*以後は二条離宮として存続
遺構 御殿、櫓、門、番所、土蔵、石垣、堀、庭園など
指定文化財 国宝:二の丸御殿(6棟)
重要文化財:建物22棟、障壁画など多数
世界遺産(古都京都の文化財)
過去に京都では“二条城”と呼ばれる城(居館)が幾つか存在しており、現存する二条城には敢えて“徳川二条城”と銘記しました。
源頼朝が天皇から軍事・警察権を委任され、東国の鎌倉に幕府を開いた後、武家政権は京の御所の近くに連絡所を構えて、天皇家を警護すると共に、意思疎通の向上に努めました。
(天皇を担いで討幕を画策する輩が現れるのを阻止するのが真の目的ですが…)
今回はそんな“果たす機能”の観点から二条城を見て行きます。
本丸と二ノ丸の二郭からなる輪郭式の二条城 工事中の本丸御殿を含め立ち入り禁止区域が多くて、自由な散策は出来ません。
東大手門と外堀 金沢城の内堀みたいに狭い堀なので、近年に埋められた様に思えるのですが…
明治の古写真でも同じなので、これがオリジナルです。
東大手門は御所に正対する正門 寛文2年(1662)建築以来、雨樋が付いた以外変わっておらず重文です
そもそも、武家政権が京に出先機関を構える様になったのは、承久3年(1221)に起こった承久の乱が契機です。
かつての天皇親政を望む朝廷(後鳥羽上皇)と、西国を中心に北条政権に反駁する武士が結び付いた“討幕の乱”であり、これを鎮圧した幕府は、西国支配の強化とともに朝廷の監視の要を痛感しました。
京に遠征して来た北条泰時は、内裏から鴨川を挟んだ東岸の六波羅にそのまま滞陣し、その後に“①六波羅探題”という正式な役所が置かれて、朝廷の監視と政治介入が行われる様になるのです。
門内右手にある番所は門衛の詰め所 江戸城と同じですね
大手門に枡形はなく門内は武者溜まりの広場になっていて、すぐに築地塀に囲われた二の丸御殿があります。塀の五条線は皇室の離宮として使われた故のものでしょうね
御殿の正門は南側にある唐門 超豪華仕様です
国宝の二の丸御殿 左端の建物が“大政奉還の諮問”がおこなわれた大広間
中学の修学旅行の時、こんな写真を撮った記憶があります。 時代は変わっても人は変わりませんね(^^;
武家政権が足利幕府に代わると、尊氏は本拠を京に定めた為、出先ではなく“直接監視”の形になります。
足利氏の居館は内裏の北東に隣接した室町に構えられ、将軍の居館を“幕府”と言ったので、『室町幕府』と称される訳です。
この時代の討幕活動は、朝廷の一部が京を出て、吉野の様に外部を拠点に続きますが、朝廷主導での討幕の試みは南朝の消滅で終わってしまいます。
格式の高さの象徴、唐破風の玄関 中の見学もしましたが、撮影禁止のため写真はありません。
二ノ丸庭園を横切って、本丸に向かいます。 小堀遠州の渾身の庭ですが、清掃員のエンジンブロワーの轟音が風情を台無しにしていました(^^;
内堀と東橋、本丸櫓門 小さな外枡形に高麗門ではなく櫓門、他ではあまり見掛けない形式ですね
実はこの東橋は二層式の二重橋で、上層は手前にあった溜櫓の二階から櫓門の二階に繋がっていたそうです。
内堀はやや広いし、高石垣にフル多聞、そして凝った城門と、本丸は“本能寺の変”に学んだ縄張りになっている気がします。
この頃になると、平安遷都以来の宮城(大内裏)は寂れて消滅し、御所である内裏も無くなって、天皇家は緊急時の仮御所である里内裏に住まわれていました。
しかしその規模は、わずか1町四方(109m四方)と史上最も慎ましいものでした。
逆に見れば、幕府の直接監視が功を奏した結果…とも言えますが、将軍と管領・守護達の京での暮らしは“公家化”の弊害を生み、地方を統治できない政治が戦国時代の幕を開けさせるのです。
その②につづく
古民家の花壇です
6月前半はスカシユリが存在感を発揮していましたが、
後半はもうグラジオラスが主役です。 花の世界の栄枯盛衰もまた熾烈です(^^;