続いては、琵琶湖畔にある水茎岡山城を訪ねました。
どの城でも、訪城前にはひと通り予習をして、概要や見どころなどの情報を持って出掛ける様にしていますが、この城は勝手な思い込みもあって、帰宅後に大きな間違いに気付いてしまいました(^^;
近江の城 水茎岡山城 登城日2020.03.11
別名 尾山城、九里城
形式 平山城(湖城)
築城年 南北朝時代
築城主 佐々木氏
城主 九里氏、伊庭氏
廃城年 大永5年(1525)
遺構 土塁、堀切、曲輪など
文化財指定 なし
所在地 滋賀県近江八幡市牧町
水茎岡山城は、室町中期に近江守護の佐々木氏が琵琶湖交通監視のため築城しました。
比高104mの尾山を中心に隣接する頭山、亀山(?)全域に築かれた城で、当時は琵琶湖に浮かぶ島だったそうです。
登城口は湖側の浄水場付近にあります 前方の山は頭山で、てっきり副郭となる山…と思っていました
県道脇の旧道に登城口の石柱がありました クルマは路肩が広いので、どこにでも停められます
8合目にある水道施設までまっすぐに続く階段ですが…
戦国期に入った永正5年(1508)、大きな異変が起こりました。
管領細川氏や大内氏との政争で都を追われた将軍:足利義澄が近江守護:六角高頼を頼って逃れて来たのです。
先年に所領問題で険悪となっていた将軍との関係でしたが、関係回復の機会と捉えた高頼は義澄を保護する事にし、守護代:伊庭貞隆の家臣で水茎岡山城主の九里信隆にその身を預けました。
半端ない荒れ様ですね。 夏場には近寄れないな、これは。
水道施設(配水タンク?)に着きましたが、もうずっと前から廃墟の様です。 荒れる訳だ…。
タンクから先は道も定かでなく、手付かずの倒木が行く手を遮ります。 それでも滅多に来ない登城者の為に張られたロープが行先を示してくれます。
思わぬ大きな役目に奮起した信隆は、城内二ノ丸に居館の“尾山御所”を造営して献身的に義澄に尽くしました。
永正7年には、新将軍の足利義材を擁立した細川高国の兵3,000に囲まれますが、奮戦してこれを退けています。
おそらく、この時に水茎岡山城の防備が大きく整備された事でしょう。
山上に着きました。 東西に二つ並ぶ土塁の上だと思うのですが、藪が酷くてよく判りません
見下ろす土塁の下は本丸の削平地のはずですが、一面荒れ放題の竹藪が視界を遮っています
土塁は一旦郭の面に下りて、次の土塁が始まります。 この部分を堀切という人もいますが、土塁自体が目隠し(あるいは北風除け)の“一文字土塁”ではなかったか?
近江に逃れて3年後の永正8年、義澄には嫡子の亀王丸が誕生しますが、喜びも束の間、暮れには義澄自身が帰洛できぬまま城内で病死してしまいます。
すると、義材との仲を案じた六角高頼は水茎岡山城を攻め落とし、信隆は討ち取られてしまいました。
そんな中で、亀王丸は密かに播磨守護の赤松義村の元に逃がされ養育されました。
ロープに従って次の土塁上を進みますが、こちらは笹が酷い(^^;
郭はいくぶん見やすくなりましたが、遺構が見えるレベルではありません
土塁の最後(東端)は天守台状に一段高くなっています。たぶん物見台か
10年後の永正18年(1521)、細川高国と将軍:義稙(義材)が不仲になると、高国によって亀王丸が呼び戻され、12代将軍:義晴となりました。
この頃になると足利将軍は飾り物で、なまじか権力を志向すると首をすげ変えられる…。
鎌倉幕府から何ら進化してない事実が、室町幕府の低評価の所以ですね。
此処はまた、笹の背丈が高くて、ロープを持っていないと歩く事も叶いません。 佐々成政に攻められた事があったのか?
それでも360度見晴らしの良い山なので、一度は整備された様ですが、お役所が管理しない史跡では有志による整備にも限界があります。
琵琶湖を見張るに最適だった景色もこの通り。 ただでさえ史跡の多い滋賀県は、この城址を“掃いて捨てた”様ですね(^^;
一方で水茎岡山城のその後ですが、持ち主である守護代:伊庭貞隆が管理していました。
しかし、高頼の城攻めが契機となって、近江でも守護VS守護代の下克上の争いが勃発し、水茎岡山城を舞台にした2度の攻防戦がありました。
大永5年(1525)の戦いで敗れた伊庭氏は滅亡し、六角氏が戦国大名に勝ち残るのですが、水茎岡山城は観音寺城の支城ともされず、これを機に廃城となった様です。
次に訪れた八幡山城から見下ろした水茎岡山城全景。 最高所が主郭と一縷の疑念もなかったのですが…
帰宅後の復習で偶然見つけた縄張り図 なんと本丸は頭山になってるではありませんか! ありゃま兵衛の向陽閣の巻でした(*_*;