一昨年の秋、“第二次天正伊賀の乱” を背景に、織田軍と伊賀忍軍との壮絶な戦いの跡を訪ね歩きましたが、今回その前哨戦となった“第一次天正伊賀の乱”の舞台である丸山城を訪ねました。

 

伊賀の城  丸山城  三重県 登城日:2020.02.19

 

 城郭構造  連郭式山城

 天守構造  三層の複合天守と伝わる

 築城主    北畠具教

 築城年    天正4(1576

 改修者       北畠(織田)信雄

 主な城主  滝川雄利

 廃城年    天正12(1584)

 遺構          天守台、櫓台、曲輪、土塁、堀切

 指定文化財 なし

 所在地    三重県伊賀市枅川

 

丸山城縄張り図 小規模な城館が散在する伊賀にあっては特殊な城です

 

蔵書から 想像復元イラスト

 

 伊賀盆地の南部に位置する丸山に、初めて築城をしたのは北畠具教でした。

北畠氏は南伊勢一円に勢力を張る戦国大名で、戦国末期には北伊勢や紀伊、大和にも拡大し、伊賀にも大きな影響力を持っていました。

  この時期の伊賀国と言えば、各郷村に割拠する国衆が連帯する惣組織を作り、自治国家の体となる“伊賀忍軍”を形成していた訳ですが、具教は彼らと緩い攻守同盟を結ぶ形で、影響力を扶植していたものと思われます。

 

大手口は南側集落にあり、民家の脇を登って行きます 比高は60mで険しい山ではありません

 

振り返ると木津川の向こうに天童山で、臨場感は満点

 

地元のご厚意で、公民館脇に専用の駐車場(5台分)が用意されていました。有難い事です。

 

史跡指定が無いから、看板類も手作り。子供達が頑張ってくれたのか、誤字もまたご愛嬌でほのぼのします(^^;

 

 

 その北畠氏も永禄12(1569)に織田信長に侵攻されると抗し切れず、将軍の調停で信長の二男:信雄を養嗣子とする事で和睦しましたが、実権は具教が握る続けた為に、乗っ取りを画策する信長には快く思われていない状態でした。

 信雄に実権を譲り、自身は本領の伊勢を去って、伊賀に隠居する名目での丸山築城で、具教にすれば織田氏との共生に最大限譲歩した隠居城でしたが、築城途上の天正4年の暮れ、三瀬谷館に居た具教は信長が差し向けた刺客により殺害されてしまい、丸山城の工事は中止してしまいます。

 

2分で着いた平場は出丸 外側に低い土塁が巡り、馬出しも兼ねています

 

出丸から山上の主郭へは尾根道を進みます 防備が薄くすぐに寸断されそう…

 

主郭部に入って来ました 本丸下には幾重にも帯曲輪が巡っていますが、通路以外は笹藪でよく判りません(^^;

 

 

 晴れて当主となり北畠氏を掌握した信雄は、伊賀の領有化を狙っており、天正6(1578)春には平定の拠点として丸山城の再築城を重臣の滝川雄利に命じました。

 突然現れた北畠軍と大勢の人夫が工事を始めたのに驚いた伊賀の国人衆は、西隣の天童山(無量寿寺)に集まってその成り行きを監視していましたが、壮大な城郭が出来て行くに従って危機感を強め、完成する前に攻め落とす事を決議します。

 

 同年秋、近郷の忍軍が集結して未明に総攻撃が仕掛けられると、寝込みを襲われた北畠軍は大混乱に陥り、人夫達とともに先を争って伊勢へと逃げ帰り、一旦は危機が去りました。

 

本丸に上がるとすぐ左側に供養塔があります。 敵味方を問わず天正伊賀の乱での殉難者3万人余を供養するものですが、これは川中島や関ヶ原より多く東日本大震災の倍もの死者数です…。

 

天守台は6間四方で3間の高さの石垣づくりでした。 石を取り去った後の盛土と考えれば納得できるサイズ

 

本丸も残念ながら藪の中

 

 

 翌天正79月、捲土重来を期した信雄は、北畠氏単独で総動員して伊賀へと侵攻します。

三方向から峠越えで攻め込んだ兵は1万余りで、丸山城の奪還は楽勝かと思われましたが、信雄の来襲を見越していた伊賀衆は百地丹波を中心に用意周到に準備をしており、僅か1,500の寡兵ながら、敵軍が峠を越えまだ山間に在るタイミングで奇襲攻撃を仕掛けました。

 戦闘陣形が取れない細道を進んでいた北畠軍は夥しい被害を出し、峠まで退却する中でまた多くの将士が討死にしたので、踏み止まる事も叶わず伊勢へと逃げ帰りました。

 

連郭の続く西の尾根を歩いて行きます

 

二ノ丸の西端には櫓台が判別できますが、石積み等は残っていません

 

三ノ丸へは堀切で仕切られ、土橋が架かっています

 

 

 丸山城をめぐる“第一次天正伊賀の乱”の顛末は、こうして伊賀衆の勝利に終わりましたが、相談無く兵を動かして大敗した事に信長は激怒し、厳しい叱責の手紙を書いています。

夫れ国を治るの大要は、先ず大国を攻め小国を囲むことなかれ、大敵属さば即ち小敵自ら靡かむ。 又大敵は恐るべからず、小敵は侮るべからず。

殊に伊賀は険難の地なり、力を以って之を攻むるべからず。 専ら道徳を用いれば即ち攻めずして之を取るべし。 信雄、若気によりて是の如し…』

 

 『お前が言うか!?』…という気もしますが、この後2年掛けて調略工作を進めた信長は、天正9年の9月に5万もの兵力で6方向から伊賀に侵攻し、激戦の末に“伊賀自治共和国”を滅亡させました。

 

三ノ丸にも堀切と櫓台が認められます

 

西端の西ノ丸に明瞭な櫓台…と思いきや、これは水道の貯水池でした

 

西の谷底に向けて道が続いています 位置的にも搦手かと思うのですが…

麓は耕地改造されていて、断定はできません

 

 

 “第二次天正伊賀の乱”の結果伊賀国は信雄に与えられ、信雄は伊賀の守護として滝川雄利を任命したので、雄利は支配・戦略の拠点として丸山城を活用した様です。

 ひょっとしたら、天守建築など丸山城の総仕上げは雄利によって行われたのかも知れませんが、本能寺の変の後の天正12年、秀吉との関係が険悪となった信雄は、伊賀を放棄して雄利を松ヶ島城に入れ守らせました。

 

 以後、雄利が伊賀に戻る事はなく、次いで入った筒井順慶も使っていないので、丸山城はこの時に廃城となった模様です。

 

忍者の里:伊賀 次回のブラタモリ(29日放送)のテーマは“伊賀忍者”だそうですから、丸山城が出るかも知れませんね