は水口岡山城の廃城後にこの地に築城された水口城を訪ねました。 

本来、水口岡山城もその実働期間は水口城と呼ばれていましたが、徳川政権で甲賀郡が幕府直轄領となると、無用になった城は廃城とされます

 しかし、京から一日の道程にある水口は、将軍家の宿泊する居館が建てられ、その居館が“城構え”であった為に新たな水口城呼ばれました。

 廃城となった水口城を指す場合は、“古城”あるいは “古城山城”と呼ばれていましたが、近年に学者さんが“水口岡山城”としたのだそうです。

    

 近江の城  水口城   登城日:2020.01.20

 

 別名      碧水城 

 形式      梯郭式平城

 築城年    寛永111634

 築城主    徳川家光

 城主      徳川氏、加藤氏、鳥居氏

 廃城年     明治61873

 遺構      郭、土塁、石垣

 文化財指定 県の史跡

 所在地    滋賀県甲賀市水口町水口

 

 寛永11年(1634)、徳川家光の将軍宣下の為の上洛に際して建てられた宿泊御殿ですが、ほぼ単郭の“本丸”だけ切り取った感じの、明らかに城郭構造ですね。

  もう安定期に入った時期の上洛ですが、この時に随伴した武士は30万人だそうですから、なんとも凄い事です。

 道中は諸藩の居城に宿泊しての旅ですが、伊勢亀山城から近江膳所城までの間にさしたる城は無く、それ故の新規築城だったのでしょうね。

 

パンフの縄張り図 四隅に櫓を配して、虎口は大手が外枡形、搦手は内枡形で造られています。

将軍宿所といっても、関東の鷹狩り御殿とは違う、二条城に近いまさに“城”ですね

 

現状は…というと、艮櫓跡あたりは荒れています。石垣はなく、櫓台も明瞭ではありません。

 

土塁下の水が浸かる部分にはシッカリ根石が積んであります。 あれ?総石垣じゃなかったんかな?

 

乾櫓の櫓台はキレイに遺っていました。 大きな櫓台で、石積みは江戸後期の技術ですね。

 

 

 しかし、次の家綱が僅か10歳で将軍を継いだ時は、幼少ゆえに勅使が京から江戸に下向しての将軍宣下になり、以降はこれが定常化したため将軍の上洛機会はなく、宿所としての水口城が使われたのは家光の時一回こっきりでした。

 幕府は水口城には高給旗本を城代に置いて、“番城”として維持管理していましたが、50年後の天和2(1682)にさすがに無駄と悟ったのか、水口藩を立てて大名に譲渡しました。

 

巽櫓のコーナー部は相当に土塁(盛土)が緩やかになってしまっています。

 

坤櫓の部分では、とんでもない光景が…。 郭内は県立の進学校:水口高校のグランドですが、ここから堀に要らない土砂が投棄されてるみたいですね(*_*; 洲が出来てるから相当な量ですが、これを見て誰も何も言わないのかな?

 

グルリ一周して、大手枡形の部分は整備されて、往時の城らしくなっていました。 本来は枡形に櫓は無いのですが、競売で民家に移築されてた乾櫓をここに再移築して資料館にしたそうです。正規の場所だと見られないから、良い選択ですね。

 

本格的な木橋を渡って入って行きます。

 

 

 水口藩主になったのは加藤明友で、2万石での立藩となります。

この明友とは加藤嘉明の嫡孫にあたる人で、父:明成が会津40万石を改易(会津騒動)されると、祖父の功績を加味されて石見に1万石を与えられ、辛うじて大名として存続していましたが、1万石加増での転封となりました。

 

 水口城は加藤氏の居城となった訳ですが、明友はこの城の御殿に入ろうとはせず、“将軍からの預かりもの”として維持管理し、自身は城外に陣屋を建てて居住し、政務を行なったそうです。

 この姿勢は代々受け継がれますが、御殿はさすがに老朽し、正徳年間(1715頃)には取り壊されて、以後の郭内は更地だったそうです。

 

高麗門をくぐると、右折れで櫓門へ向かいます

 

本来は櫓門だった様ですが、現状は平屋門(内部はトイレ)の意匠(^^;  門内はもうグランドだから、今は不明門ですね。

 

枡形はかなり広いですが、雁木は一部のみで省略されています。

 

土塀の狭間から見える水口岡山城址 江戸時代は御用林として植林されており、寺社の建造や河川改修など、長いこと石材の供給地にもなっていた様です。 城址に石が殆ど無い理由が判りました。

 

 

 加藤家は2代藩主:昭英が若年寄に昇進し、5千石の加増で一旦下野壬生藩に転封します。

代わりに能登から鳥居忠英が入って来ましたが、忠もまた若年寄に昇進して、在任15年余りで加藤氏と領地交換する形で壬生に移封して行きました。

 戻って来た加藤氏は25千石での水口復帰となり、以後160年間を9で繋いで明治を迎えました。

 

 廃城となった水口城の遺構資材は競売に付され、石垣はそのほとんどが近江鉄道の敷設に活用されたと言います。

つまり、復元模型と現状の最大の相違点である石垣は、水口岡山城から運ばれて積まれていたもので、それが殆ど持ち去られたという事ですね。

 

資料館にある復元模型 総石垣で、郭内は総雁木ですから、膨大な量の石材が失われた様です。

 

乾櫓も平櫓だった様ですが、移築したのは二重櫓。 櫓台も大きいから、どこかのタイミングで加藤氏が改修したか?

 

学校長殿、堀への土砂の無断投棄も禁じてくださいませ。

 

 

 残った城址は学校の敷地となり、現在も水口高校のグランドとして使われていますが、近年になって県の史跡に指定されたのを機に、出丸形状となっている大手の外枡形が整備され、城の面影を取り戻しています。

 しかし、用途がハッキリせず、馴染みの薄い水口城は、水口の人達にとってさほど愛着の深いものではない様で、今後の維持や名所として一層盛り上げて行くには課題も多そうに感じました。